青森商業高校
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取得日:2024年03月22日
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さ さ も り ぎ す け
笹森儀助本校創立の功労者
○一階ホールの自動販売機横に、一体のブロンズ像があります。モデ
ルは、青森商業高校の前身である私立「青森商業補習夜学校」を創立
した笹森儀助(ささもりぎすけ)です。
○明治 35 年(1902 年)5 月、2 代青森市長に就任した儀助は、「青森の
発展のためには商業の振興が必要。そのためには人材育成が急務」と
考え、商業学校の設立に動きます。こうして、私立「青森商業補習夜
学校」が創立されました。
○以後、明治 40 年(1907 年)に青森市立商業高校、大正 15 年(1926 年)
に青森県立商業学校、昭和 23 年(1948 年)に青森県立青森商業高校と
校名は変わり、校舎も何度か移転して、平成 29 年 4 月に現戸山校舎
がスタートしました。平成 30 年で創立 116 年目となる伝統校です。
1青年武士として
○儀助は弘化 2 年(1845 年)、弘前藩の中級藩士・笹森
家に生まれました。父が若死にしたため 13 歳で家督を
継ぎ、建久(建行)と名のりました。15 歳で藩校「稽古館」
に入学し、期待を集めます。しかし、上役が重職から
外され、その一味と見られた儀助も処罰されました。
○やがて幕府が倒れ、明治新時代が到来。儀助は明治 4
年(1871 年)の廃藩置県で誕生した青森県の役人とな
り、
り、さらに第六大区長や中津軽郡長として、人々の生活改善や病院建設、小・中学校の整備
などに力を尽くします。
2『千島探験』
○その後、東京に出た儀助は西日本各地の地理・風
俗・産業・交通・民情・史跡を見て回ります。その
記録『貧旅行之記』は周囲から高く評価されました。
○さらに、弘前出身のジャーナリスト陸羯南(くが
かつなん)から「政府が北方探検を計画している」
と聞かされ、儀助は自分も参加できるよう、知り合
いの政府高官へ頼みました。明治 25(1892)年 7 月か
ら 9 月にかけて千島列島をめぐった 2 か月間の旅の
ようすは、報告書『千島探験』にまとめられました。
知られざる大旅行家
3『南島探験』
○儀助の『千島探験』は、
「た
いへん詳しい」と政府から高
く評価されました。
○内務大臣井上馨から「南方
も見てきてほしい」と頼まれ
た儀助は、610 月の 4 か月
間かけて、奄美大島・沖縄・
与那国島を回りました。
○明治 27 年(1894)、儀助は報告書『南島探験』を提出しました。
この書は「沖縄の民情を詳しく、正確に伝えている」と、またも
高い評価を受けました。政府は儀助を奄美大島の第 5 代島司に任
命。儀助は次女つるを伴って4年間、赴任しました。
○儀助はこの後、台湾や朝鮮半島へも探検旅行に出ています。
笹森儀助写真 明治 26 年(1893) 笹森家蔵
南島探験の際に撮影したもの。上から落ちてくるヤマビル除けの
コウモリ傘を差し、蚊を除けるための団扇を携えている。暑さの
せいで裾を端折っているが、虫に刺されてずいぶん腫れたという。
この姿で沖縄に入った儀助をみて、地元の人たちは、政府の役人
とは信じなかった。
商業教育への情熱
4商業学校の設立
○儀助の「青森商業夜間補習学校」は、夜間
学校としてスタートしました。職業を持つ生
徒が多く、昼間は授業が受けられなかったか 青森市立商業学校の校舎(青森市浪打)
らです。儀助は
校長
1
となり、市長としての公
務の合間を縫って、自ら教壇に立ちました。
○右の絵ハガキは開校 10 周年記念のもので、
大正 4 年(1915)発行です。校名の「青森市立
商業学校」は明治 40 年から、大正 15 年に「青
森県立商業学校」となるまで使用されました。
○明治 36 年(1903)12 月、儀助は青森市長を
辞めました。大正 4 年(1915)9 月、弘前で死
去。享年 71。弘前西光寺に眠っています。