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校長挨拶・理念 | 拓殖大学紅陵高等学校

PRINCIPAL GREETING
PHILOSOPHY

校長挨拶・理念

MESSAGE

学校長より

『自然災害に学ぶ』

森 章 校長

ドラえもんの日本誕生ではありませんが、遥か昔に人類の大移動の流れで日本列島に辿りついたのが我々日本人のご先祖様です。周りを海に囲まれていますから、外敵に襲われて住み慣れた土地を奪われることもなく命を落とすこともなく、温暖な四季の変化の中で生活していたのです。獲物を捕獲しながら移動する狩猟生活よりも、農耕や漁猟で定住した生活を選んだのも幸いして、性格も穏やかで温和な日本人の原型が誕生したのです。

鍵の無い住まい・靴を脱いで家にあがる・お風呂にゆったり浸かる・床に布団を敷き寝る・木と紙が住宅の主な材料など、日本家屋の特徴は外敵に襲われることが無いことが大前提で出来上がった、誇るべき日本の文化なのです。

でも一方で、この列島のどこかで毎年のように火山の噴火・どこかで台風の被害・どこかで大雨や大雪の被害が人々を襲ったのです。台風に直撃されれば家は壊れ、田畑は水をかぶります。さらに人々を苦しめたのが地震や津波の脅威でした。ひとたび大きな地震に襲われれば家は倒壊し、道路や水路は寸断され破壊されます。津波に襲われれば集落ごと家も田畑もそして尊い人の命までもが根こそぎ波にさらわれてしまう、自然災害と驚異との隣り合わせの生活があったのです。

台風が去り・大雨がやみ・火山の噴火や地震の揺れがおさまったときに、その地で生き残った日本人は学んだのです。それは住まいを立て直す・田畑に流れ込んだ流木を取り除き耕作できる田畑にしようとする・壊れた川や用水の土手を修復し橋の架け替えをしようとするとき自分一人では何もできないことを。

家族親戚全員、老いも若きも女も男も総出で、協力すれば何とか生活するめどはたつ。さらに地域が全体・集団で協力して働けば建物の修繕・橋の架け替え、川の土手の改修や田畑の流木や流石を取り除くことも、大規模にしかも素早くできる事を学んだのです。

一人の人間が一人での作業なら何の問題も起こりませんが、家族親戚が総出で作業をする・地域の人々が全体・集団で動くとなると、気をつけることは『自分勝手・身勝手』は許されない・慎まなければならないことを学び、そこから『協調性』や『秩序ある行動』『自分に与えられた役割・役目』を身につけたのです。

家族は祖父母や両親を中心とした、親戚縁者が血縁関係の『縁』を大切にしてきたのです。他人同士が集まる集落が町内となり、大きな集団となれば地縁関係の『縁』を大切にしてきたのです。

豊かな大自然の恵みと四季の変化に抱かれた日本人は、同時に大自然の驚異と自然災害の中から、人は自分一人では何もできないことを学び、協調性・秩序ある行動・人に迷惑をかけない・自分の役割を果たす人間関係の為にあるのが『縁』だと気づいたのです。その結果が『御縁』と呼ばれてきたのです。

『御縁』

一つ、親子の縁

一つ、兄弟・姉妹の縁

一つ、親戚の縁

一つ、社会の縁(学校・会社・地域・趣味)

一つ、もっともな縁(偶然知り合った)

如何でしょうか。自然災害から学んだ人間関係の縁の大切さ、それは何かあれば・いざとなれば親子・兄弟姉妹・親類縁者・地域社会や関係者が総出で一致協力して難局や困難・苦難から這い上がり立ち上がろうじゃないか!とお互いに激励する縁の力なのです。

地域のお祭りやお祝い事(結婚・成人・七五三など)やお悔やみ事(葬儀・法事)さらには地域・会社・学校の諸行事や歓迎会なども、何かあった時のための人間関係づくりの縁の確認のように思います。

人間関係を『縁』と呼び『縁』の数を『1本の糸』に置き換えたのなら、皆さんは何本の糸が誰と結んでありますか?困りごとがあったとき、一本の糸を辿れば解決の糸口に繋がるアノ人に相談が出来るのです。嬉しいことがあったときには一本の糸を辿れば共に喜んでくれるアノ人に繋がるのです。人との縁をたくさん結び・気まずい人との縁の修復をして太く丈夫なロープのような縁の糸を結べば、もっと強く丈夫になれます。

 

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『来た道・行く道』

「子ども叱るな、来た道だもの」

「年寄り笑うな、行く道だもの」

この言葉を知っていますか。

耳を澄ませば家では親や兄姉が、学校では教師や先輩が、職場では上司や経験者が、「何で出来ないんだ」「こんな事も判らないのか」「何回教えたら覚えるんだ」と、子どもや後輩、経験の浅い社員を叱ったり怒ったりしている声が聴こえそうです。叱り声や怒った声が聴こえない時には、出来ない・失敗を重ねる・恥ずかしさでオドオドする姿を指さし、笑いの種にする様子があります。

駅の改札口でお年寄りが立ち止まっていると、「Suicaも使えないのか」「急いでいるんだから早くしろよ」と小声でこぼすサラリーマン。買い物先のレジで小銭を数えていれば、「電子マネーで払えばいいのに」「何をもたついているんだ」といらつきを隠せない若者。パソコンや携帯電話を使いこなせない姿を見て、迷惑そうな顔をして文句を言う人も馬鹿にして笑いものにしながら教える人もいます。

しかし考えてみれば、立派な仕事をしている働き盛りの人にも子どもの頃があったのです。現在大リーグで活躍している大谷選手も、野球を始めた頃にはボールを落としたことも、バットを振りながら転んだこともあったのではないでしょうか。英語教師として流暢な英語を話して活躍する人も、素晴らしい作品を作り出す陶芸家も、美味しい料理を提供する板前さんやシェフも、失敗を重ねながら成長してきたのです。英語の発音が悪かったり単語を覚えられないとき、粘土の扱いが雑だったり窯の火の調整で失敗したとき、食材の切り方や味付けを間違えたり、焼きすぎ煮すぎで台無しにしたときがあったのです。誰しもが子どもの頃の失敗を積み重ねて今があることを忘れてはならないのです。

現在第一線で活躍している人は、お年寄りがパソコンやスマホなどのOA機器を操作できないことや、考え方が古いこと、動きが遅いことを笑ったりすることがあるかも知れません。しかし、自分たちもその馬鹿にして嘲笑っていたお年寄りの年齢に確実に近づき、必ずその年齢になることを忘れてはいけません。

だからこそ、子どもや経験不足の人を見守る温かな気持ちや、お年寄りの人への尊敬の念や謙虚な姿勢が大切な時代になってきました。

そんなことを考えていた頃、木更津市岩根東地区の文化祭&敬老会に招待されました。空手道部の部員が見事な型の演武を披露し、会場を盛りあげ拍手喝采を受けた一方で、会場を笑いと共感に包んだのが“18歳と81歳”という大喜利でした。18歳の高校生が人生の大先輩に語りかけた言葉です。

*恋で胸を詰まらせるのが18歳=餅で喉を詰まらせるのが81歳

*ドキドキが止まらないのが18歳=動悸が止まらないのが81歳

*偏差値が気になるのが18歳=血圧・血糖値が気になるのが81歳

*恋に溺れるのが18歳=お風呂で溺れるのが81歳

*まだ何も知らないのが18歳=もう何も覚えていないのが81歳

*道路を暴走するが18歳=道路を逆走するのが81歳

*言い訳するのが18歳=言ったことが記憶にないのが81歳

*心がもろいのが18歳=骨がもろいのが81歳

*自分を探しているのが18歳=皆が自分を探しているのが81歳

ここで気がつきました。拍手喝采をしながら「そうだよ」「うまいこと言うね」と笑ってくれているお年寄りの方は、全員が18歳の経験をしているのです。だから笑いながら「孫よ!あんたたちもいつかは81歳!油断するなよ!」と高校生たちに拍手と笑顔をくれたのです。

(令和5年12月)

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『嫌がることはしない、迷惑をかけない』

日本建築と他国の建築には二つの違いがあります。一つは玄関があり、そこで靴を脱ぐ習慣があること。もう一つは部屋の仕切りの襖や障子に鍵がないことです。何故だかわかりますか? 外国では外敵に襲われてもすぐに逃げられるように家の中でも靴を履いています。いつ襲われるか判らない状況の中で立ったままシャワーを浴び、靴を履いてベッドに横たわる習慣は、危険が隣り合わせの悲しい歴史が影響しているのかもしれません。

日本では、自宅に戻れば外敵に襲われ外に逃げ出すような心配はなく、外履きを脱いで裸足で室内を歩くことができます。寝そべってのんびりとお風呂に入り、鼻歌を歌うこともできるのです。ベッドではなく床に布団を敷き、安心して寝ていられるのです。

家屋の襖や障子に鍵がないのも、一緒に住む家族や同じ建物に泊まるお客様を完全に信頼しているからです。自分の部屋はこちら側、襖一枚で仕切られた隣の部屋は隣の人が使う部屋。だから開ける必要もないし入る必要もない、誰も出入りしないのです。

江戸時代から明治時代に日本へ観光に来た外国人が「数日の観光で宿を離れるから」と貴重品を保管する金庫を希望しました。すると宿の主人は“お盆”(お茶碗などを運ぶ時に使うものです)を持ってきて、「この上に置いて下さい」と言ったのです。貴重品をお盆の上に置いた外国人は、お盆ごと金庫に保管するのかと思っていました。しかし、主人はそのお盆を部屋の“床の間”に置いて出て行こうとしたのです。驚き怒った外国人が抗議すると、宿の主人は平然と言いました。「この国には他人の部屋に入って盗みを働く者はいないのです」と。数日後、観光から戻った外国人が全部盗まれているだろうと不安に思いながら部屋を開けてみると、小銭一枚すらなくなっていませんでした。外国人は驚き、母国に帰って日本の良さを世界に広めたのです。

どうしてこの少ない例で日本人の生活習慣がわかるのでしょうか。それは「自分の大切な物が盗まれたら嫌な気持ちになるのだから、自分も人の物は盗まない、手を出さない」「外での激しい議論や争いごとは、お互いに家まで持ち込まない」という暗黙の了解ごとがあるからです。ですから相手の方の家に訪問する時には、前もって要件や日時を伝え、互いの了解のもとで訪問するのです。また、家に戻れば安心できる時間と空間があり、心も躰も落ち着き明日の鋭気を養うことができたのです。

こんな例えもあります。子どもが上手く作業ができない、物がわからない、やるべきことが出来ないことを怒ったり笑ったりしてはならない。それは貴方が通ってきた道だから。老人がテキパキと行動できないことも、物忘れが多くなり同じことを繰り返して言うことも笑ってはならない。それは貴方が行く道だから。

人が嫌がることは自分も嫌なこと。人が喜ぶことは自分も喜ぶこと。忘れないで欲しいものです。

(令和5年7月)

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『第一印象は3秒で決まる』

飼い主と散歩している犬が、よその犬とばったり鉢合せになります。この瞬間よほどのことがない限り喧嘩にはならず、互いにクンクンと匂いを嗅ぎ合うのです。この時に相手の犬が(オスかメスか、年齢は上か下か、同じ血縁関係があるかないか、強いか弱いか等)の情報が一気に駆け巡るそうです。この情報で相手を見極めるから、多くは喧嘩にならないのです。

このように、犬なら匂いを嗅ぎ分ける優れた嗅覚でクンクンとお尻や躰の匂いを嗅いて評価をします。猫なら発達した聴覚で相手の唸り声を聞き分け、優れた視覚で躰の動きを観察して評価をしています。

さて人間は偶然に出会った人や、会わなければならない人と会ったときに、相手の方と対面してどんな方法で評価をするのでしょうか。

犬のように相手に近づいて匂いを嗅げば、間違いなく痴漢や変態と思われます。猫のように唸り声をあげたり、威嚇して爪でひっかいたりすれば間違いなく変質者や傷害事件の当事者の扱いをうけるのです。

人と人が出逢うと、まず相手の顔を視ます・次に何となく全体を視ます。もちろん椅子に座るときのしぐさや、挨拶して立ち去る後ろ姿も観察しているのですが、人が人を観察して評価をつけるのは、犬や猫よりも早い一瞬で見極めているそうです。

心理学者の方や接待マナーの講師の方によれば《人間は第一印象で判断する》と答えています。しかも判断するのに必要な時間はたったの《3》この僅か3秒の時間で相手を判断するのですから、人間の直観の鋭さに驚きます。だからこそ昔から《見た目の印象が大切》と言われ続けられたことが判ります。

ならば人は第一印象で人を評価する・その評価をするのに必要な時間はたった3秒。

そのたったの3秒で、相手の方の何に注目して視ているのでしょうか。

まずは

  • 眼つき
  • 顔つき
  • 全体の雰囲気

この三点を瞬時に見極めて、良い印象だとか感じのいい人だと評価します。逆にあまりピンとこないとか印象が悪く感じも良くないと評価して、それぞれ会った方の第一印象を心の中で決めているのです。

眼つきは、隠しようがないやる気・真剣さ・誠意さが現れるのです。適当に動いていた人が、目標を見つけて急にやる気を出した場合、人は「眼つきが変わった・眼の色が変わった」と表現するくらい生き生きとした輝いた眼になるそうです。

顔つきも、隠しようがないほど素直さや・本心を隠しているいない・心が優しいのか負けず嫌いなのか等が現れているのです。時には病気がちで元気がなかったり悩み事がある場合、逆に嬉しい出来事があった場合には、誰に話して居なくても、どこか具合が悪いのですか?何か悩み事かかえていますよね?凄く良いことがありましたか?とズバリ聞かれることも多いと思います。時にはニュースで凶悪事件の犯人の写真が映し出されると、それを見ていた人の多くは「やはり悪党は悪の顔をしている・何かとんでもないことをやりそうな顔つきだ」と言うのです。内面から湧き出す心の輝きが『眼つき・顔つき』なのです

その内面から湧き出す心の輝きが『全体の雰囲気』です。好みの髪型や服装や持ち物、話を聴く態度や歩く姿の総ては心の中の声なのです。だからこそ雰囲気は髪の長さ色や髪型でも影響します。着ている服の色合いや着こなしも影響します。ネクタイやリボンをつけかたや、ボタンやホックの止め方も観察されています。もちろん破れや汚れた個所は、真っ先に眼先が行きますから気をつけなければなりません。

さて3月で卒業する諸君は、企業で大学や短大・専門学校で新しい人たちと出会います。もちろん君たち自身も相手の方を《第一印象》で評価し、その時間は僅か《3秒》と言う短な時間なのです。その一方では新しく出逢った相手の人たちは、今までの経験や場数から君たちを《第一印象・3秒》で見極めようとしているのです。たった3秒の時間でインプットされた第一印象は生涯にわたりほとんど変わらないのです。だからこそ、これからの眼つき・顔つき・全体の雰囲気が大事です。

(令和5年3月)

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『あたり前のことは誰かのお蔭』

朝が来て昼になり夜になって、また朝が来た。春になり花が咲き、夏が来て入道雲と蝉しぐれの共演があり、秋になり澄み切った空は高く紅葉は艶やかになり、冬が来てコートに身を包めば外は雪化粧。そしてまた春が来た。昼夜、四季の移ろいなどの自然現象は《当たり前》として多くの人は関心を示さなくなっています。そのような大自然の四季の移ろいも、よく観察すれば春に真夏日が、夏に大雨が秋は猛暑で冬は暖かくなり《当たり前》の前提が変化し始めています。

さて私たち身の回りの《当たり前》を観察してみては如何でしょう。例えば、朝起きればご飯は食べられる状態で、自宅と駅までは送り迎えです。駅には時刻通り電車が到着しバス停には送迎のバスが待機しています。学校や職場につけば、出入り口の門は開かれ玄関の扉も鍵は解除されて人々の往来を待っています。スイッチを押せば照明が点灯し、パソコンは起動し、寒ければ空調の暖房が稼働します。教室には生徒が集まり、チャイムが鳴れば教師が授業を展開する日常の風景です。

ここまでの日常は誰のお蔭で《当たり前》の状況が作られているのでしょうか。その誰かは自分以外の別の誰かが《当たり前》にするために賢明に働いてくれているからなのです。

朝ご飯や夕ご飯も、食べられる状態は、献立を家族の体調や行事、予算を考えることから始まり、食材を選び買い物に行き調理をしてくれた誰かのお蔭なのです。出掛ける時のワイシャツ、ブラウスに靴下など、清潔なものを身につけられる。バックにはジャージ、練習着、タオルなど汗と泥で汚れていたものは綺麗に洗濯され柔軟剤の良い香りを放って詰め込まれています。別の入れ物にはお弁当も準備されているのも誰かのお蔭なのです。駅やバス停までの送迎も、家族の為に誰かが車を運転してくれているお蔭で、もしかするとその時間にやれることがあっても家族を優先しているのです。これも誰かが必死で働き気を使い、生活費を稼ぎ、住居を確保し、皆が健康でいられるからの日常なのです。

目を学校に移せば、教師は生徒が教室で待っている。部活生は練習場に行けば元気よく挨拶で迎えてくれると思います。生徒も学校に行けば授業や進路の相談が出来るし、生活面のアドバイスも受けられ、放課後は思い切って部活や補習授業に熱中できると思っています。それが《当たり前》だからです。でもこの《当たり前》の状態を造りだすためには、誰かが自分の仕事や役割を《当たり前》だと思い働いてくれているから可能なことなのです。

コロナ感染の影響や社会構造の変化で人と人との関係が希薄となり、家庭でも夫婦の関係、親子の関係、兄弟姉妹の関係も見えない溝が生まれているかも知れません。学校や職場でも上司と部下、同僚同士、先輩後輩、教師と生徒の関係も微妙な変化の時代に入って来ています。だからこそ、今まで《当たり前》だと思っていたことは《誰のお蔭で当たり前》だったんだと考える時だと思います。そして《この人のお蔭》と気づいた時から『有難う』が素直に言えたら良いと思います。

地域があって学校があり、家があって家族があり、生徒がいるから教師であり、教師がいるから生徒であるのです。家庭では親がいるから子どもであり子どもがいるから親なのです。当たり前だからこそ『有難う』です。

(令和4年12月)

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『少しだけの我慢』

《少しだけの我慢》は子どもからお年寄りまで誰にでも出来る我慢だと思います。物凄い我慢を想像するから一歩が踏み込めないし、「どうせ無理!」と始める前から諦めてしまうのです。

例えば、怪我や病気のリハビリ、仕事の疲れや過剰な筋トレのために足腰が痛い、痛くて立つことも歩くこともできない、首筋がこって吐き気や頭痛もある場合です。マッサージや整体の治療を受けたことがある人は、そこの身体の部位を動かそうとすると激痛がはしる、痛くてダルイから動かさないでそっとしていたいということが判るでしょう。でも判ったままでは痛みは消えないし、身体を動かして散歩やスポーツを満喫することもできないのです。

そんな時に《少しだけの我慢》をして、マッサージや整体の施術を受けに行くのです。動くだけでも痛い、ベットで寝ていた方が楽なのにとの思いを我慢し、《少しだけの我慢》で治療院のベットに横たわります。「お手柔らかにお願いします」と懇願すれば「ここが痛いですよね」と懇願を無視して指圧されます。《少しだけの我慢》で痛みに耐えながら適当な返事とお喋りをしていると、「ゆっくり起き上がってください。ゆっくりでいいですよ」と声が掛かります。起き上がって座り直してみれば、身体がポカポカしているのが実感できます。自宅では痛みで動かせなかった範囲を超えて、首や肩がまわり、肘が伸びていることが判るのです。自分の頭の中で痛いからここまでしか動かない!と決め込んでいた痛みによる限界を、《少しだけの我慢》で乗り越えた瞬間でもあるのです。

この《少しだけの我慢》を繰り返していると、怪我や病気の前よりも身体の調子が良くなった感覚が判るのです。トレーニングの過剰な負担があった場合には、身体が軽くなり動きが軽快になっていると同時に、トレーニングの効果で筋力のアップが実感できるのです。《少しだけの我慢》が実は大きな実力や結果の差になっていると思うのです。

学校の授業中です。お昼の食事も終わり暖かな日差しが教室に差し込んできます。時には先生方の声が子守唄に聴こえる場合もあるかもしれません。隣の子とお喋りの続きをしたくなるかもしれません。この時《少しだけの我慢》で授業に集中し、板書や説明をノートに書き写して判らないことは質問していたら、半年後にはどんな成績になっているのでしょうか。授業中の《少しだけの我慢》の積み重ねが、得点力や成績の差になっているのです。

自宅では友達とLINEでのやりとりに夢中になったり、ゲームに熱中してしまい気がつけば深夜になっていたりする生徒は多いのです。この時も《少しだけの我慢》で教科書やノートを読み返したら、授業中やテストの時に違う自分を発見できると思うのです。

スポーツや文化芸術でプロとして活躍している人の話題は、いろいろな媒体から知ることが出来ます。大リーグで活躍の大谷選手、十代で記録を塗り替えた将棋の藤井四冠などは別格かもしれません。でも彼らも初めて野球に触れた頃・初めて将棋盤の前に座った頃は、何も判らない普通の少年だったと聴いています。違いは、すでに野球をしている少年たちとプレーしていて、相手が自分よりも強いボールを投げられる、どんなボールも打てると気が付いた時に何をしたかなのです。懸命に将棋をさしても相手に手の内を読まれて負けが続いた時に、この人は本当に将棋が上手いと諦めたかなのです。大谷選手・藤井四冠の他の人との違いは、やはり《少しだけの我慢》ができたことだと思います。

 

少しだけの我慢が《当たり前に》

高校生の部活でも勉強でも人からの信頼でも、社会人でも、結果や成果を残してなお成長している人は、辛い時、遊びたい時、手を抜きたい時、諦めたくなった時に、《少しだけの我慢》が出来た人なのです。そしていつの間にか《少しだけの我慢が当たり前》になった人が一流の仲間入りになるのです。

《少しだけの我慢》ができない人は三流です。

《少しだけの我慢》を義務と責任でしている人は二流です。

《少しだけの我慢》を当たり前にできる人が一流です。

(令和3年12月)

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『便利さの落とし穴』

覚えることの退化の始まり

誰かに電話をしなければならない、しかも使える電話は固定電話、さらに携帯スマホは持ち込み禁止。こんな状況で電話を操作しメモや手帳を見ずに、何人までなら電話をかけられますか。つまり頭で電話番号を覚えている人が何人いますか?という質問です。

高校生だと親友と両親ぐらいかもしれません。大人になると妻や夫ぐらいでしょう。会社の上司や昔の友人は覚えていない人も多いと思います。

どうして家族や同僚、友人、さらには取引先やお世話になっている方の電話番号を覚えていないのでしょうか。

答えは簡単です。その方に電話をするときにメモや手帳を見ながら、ボタンを押す作業をしていないからです。手帳を開き、眼で確信して、指先を使ってボタンを押す…この作業で相手の方の電話番号を自然に覚えるのですが、スマホが普及した今は、電話をするときには名前の一覧を表示して、そこにある名前を押せば電話番号を確認しなくても相手に繋がりますから、頭で覚えていないのです。

でももしも出先でスマホがなくて、緊急に家族や友人、取引先に電話をしなければならない状況が起きたならば、連絡はどうするのでしょうか。最悪の場合病院に搬送されても、家族も友人も誰も判らない、が続くこともあるのです。便利さを追求するあまり、非常時に必要な大切な人の電話番号さえスマホに登録したから安心だと思っている人は多いのです。

 

この漢字はどう書くの

さらにパソコンやスマホでメール・ラインを交換する時代です。かなりの枚数になる文章も画面を通して作成して、配信しています。かなり難しい表現で漢字も使いこなし、時にはイラストや絵文字も組み入れてこりに凝った文章の出来上がりです。

ところが画面を通さず、紙に手書きで文章を書くとなった時に、書き始めた漢字の微妙なところが判らない!忘れた漢字が多い!こんな思いをする人は多いのです。小中学生の頃に習った文字でさえ、パソコン・スマホで文字を書かずに画面に打ち込んでいる間に、覚えていた漢字が音を立てて流れ出し記憶から消えているのが今だと思います。まだ覚えていない小中学生、覚え途中の高校生が画面の漢字を選んで変換していては、忘れるどころか覚えることさえ頭から消えるのです。電話番号が覚えられない、読めても書けなくなった漢字が増えてきたのは、探し物が指の感覚で画面を検索・変換すると即座に出てくるから、頭が覚えなくてもいいと退化してきている証です。

 

記録と知識はスマホ

さらに予定表・預貯金の残高や各種支払い・電車やバスに乗るときの定期券・通販での発注・辞書や百科事典代わりなど、自分の頭で記憶していなくてもスマホで調べれば大丈夫だからと完全に依存体質になっているのです。

講演会や授業の板書を書き写さないで写真に残す人も多いようです。博物館や絵画展に行っても、時間をかけて見学をするより展示物や絵画を写真に撮って記録している人も多いと聴きます。でも不思議な、いやもっともなデータがあるようです。しっかり板書を見てノートに書き写している学生と、写真に撮って必要な時には板書を後で見ることが出来ると思っている学生では、圧倒的に板書を書き写している学生の方が成績が良いのです。絵や展示物を見たつもりで写真に撮っていた人は、どの作品や展示物があったのか覚えていないと研究発表した脳学者もいるのです。

知っているつもり、判っているつもりでもスマホを見なければ思い出せないから、つい何時でもスマホを持ち歩くようになってしまったのです

本当は人が覚える事柄を、便利さを追求するあまり覚えようとしない、機械任せの時代になってしまいました。

 

待つ・考える・ドキドキする

便利なスマホは何時でも・何処でも・誰とでも連絡ができる便利なものだと思います。しかも連絡したいと思う相手に間違いなく繋がるのですから、こんな便利なものはないのです。

でも、手紙なら書きながら漢字を調べ、丁寧に書き上げ投函すれば読み手にも心が伝わるのです。返事が届くまで何日も、今日は届くか明日は届くかと不安と楽しみで待つのです。

固定電話が主流の時代は、いくら腹が立っていても自宅に戻るまでの時間でお互いに頭も心も冷やされて冷静な判断がつきますから、電話をする頃には互いに「さっきは悪かった。ごめんなさい」と素直に謝れたのです。まして異性の友達に電話をしようとすれば、誰が出るのかお父さん?お母さん?その時は何を話したら印象が良くなるのかとドキドキしながらダイヤルを回した時代は、時間帯まで考えていたのです。

コロナ感染予防で会議もリモート、大学の授業もリモートで行い、仕事もテレワークが推奨されています。確かに便利な時代ですが、家は大工さんが建てるのです。お米や野菜は農家や企業が栽培し、魚介類や海藻は漁師さんが獲るのです。病気になれば医師や看護師さんが治療してくれるから手当というのです。赤ちゃんはお母さんやお父さんに抱っこされて、ミルクを飲み、眼と眼を合わせるから笑って眠るのです。励ましや慰めもメールより手紙や電話の方が嬉しいのです。それよりも直接会って励まされ慰められたらもっと嬉しいのです。

便利さの落とし穴に落ちないように、考える・待って見る・ドキドキする時間を大切にしましょう。

(令和3年7月)

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『3つのタイ』

幼い子どもから大人・老人にいたるまで、人は心という大海で三匹のタイを飼っています。

このタイを上手く釣り上げてくれる人がいたときに人は充実した気持ちで生活が出来るのです。

一匹目は、褒められタイ。

二匹目は、認められタイ。

三匹目は、人の役に立ちタイ。

いかがでしょうか?家でも学校でも職場でも、心の奥底の大海に住んでいるタイを、誰かに釣り上げてもらうと、人は喜び勇んで頑張るものだと思います。

笑顔で挨拶ができた・綺麗に掃除をした・幼い妹弟と仲良く遊んであげた・家のお手伝いをした…この瞬間にお父さんやお母さんが褒めると、その子の《褒められタイ》が見事に釣りあげられましたので、大満足な気持ちになり顔も明るく晴れ晴れとした爽やかさが広がって見えるものです。不思議なことに一匹目の《褒められタイ》は、成長し高校生になっても社会人になっても、やがて親となり社会的な立場や名誉を手にしても心の中で泳いでいるのです。

成長をし続ける人たちは、この《褒められタイ》を釣られ上手であったり、釣りあげ上手な人なのだと思います。

 

二匹目の《認められタイ》も同じです。何をしても駄目だね・私がやるから貴方は向こうに行っていて邪魔だけはしないでね・君いたんだね・気がつかなかったごめんなさいね、などと言われれば誰でも腹が立つし、かなり落ち込みもすることだと思います。時には、この場所は自分の居場所ではないと考えます。さらに俺(私)なんか居なくても、誰も心配もしない存在なんだと自分を嫌いだすのが最近の傾向だと思います。

ところが貴方のことを見込んで「お願いします」と言われ、真っ先に相談をされ頼りにされると、人から認められた・自分を認めてくれていると感じるものです。学生や生徒が部活動でレギュラーになり主将や部長に選出されたり、社会人が重要な仕事を任されたりすると、想像以上のプレッシャーはあるものの、周りから見ても躰が一回り大きくなったように見えるのは、人から《認められタイ》が見事に釣りあげられた喜びと自分自身の自信の証なのです。

すると、それまでの落ち込み暗かった性格が、嘘のように明るく積極的になった人は数多くいるのです。《認められタイ》の釣り上手な人を【人たらし・人使いの魔術師】とでも言うのかも知れません。釣られ上手な人は使われ上手な人で、周りから大切にされる人になります。

 

次は三匹目の人の《役に立ちタイ》です。

人に《褒められタイ》で大満足した人・人を褒めて大満足した人。人に認められて大満足した人・人を認めて大満足した人。これらの人は自分も成長するし、相手も成長させることが出来たと感じます。また思えば思われる・助ければ助けられると前向きになり、人のために世の中のために《役に立ちタイ》というタイが元気よく泳ぎだすのです。

紅陵生の諸君!褒められ認められたら、人のため世のため国のために頑張ってみませんか。紅陵高校の建学の精神は『人生開拓』です。この『人生』という字をバラバラにして解釈すると、このような読み方が出来るのです。『人として生まれ・人として生き・人を生かし・人に生かされ・人を生む』と読めませんか。《褒められタイ・認められタイ・人の役に立ちタイ》が、『人生開拓』の中に泳いでいます。

(令和3年3月)

 


『コロナの時代だから』

中国武漢市で最初に確認された“新型コロナウイルス”は瞬く間に世界中に感染拡大し、ウイルスの性格も変化しているとの報道がなされています。やっと海外の製薬会社がワクチンの開発に成功し、日本の製薬会社でも効果が期待できる薬の開発が進んでいるとの情報には安ど感が漂います。

ただ気になるのは、以前からも心配していたことですが、人と人との関係が薄くなり(互いに助け合う・寄り添う・黙って手伝う・相手を思いやる・皆で協力する)など日本人の美徳の一つが失われつつあることです。

もう一つは、大人でも子どもでも鍛えられない社会の出現です。一昔前旅行に行けば(根性・友情・忍耐・我慢)などと書かれた土産品が並んでいたのです。アニメやドラマも、弱小チームに明るい部員が入部して、そこに鬼のような教官が赴任し喧嘩あり・涙あり・信頼あり・でやがて勝ち上がる。または破産寸前の会社を努力と忍耐で、新しい特許を取得して立て直す。そんな内容が多かったのです。最近は刑事・医療・恋愛ドラマか無難な旅番組やクイズ番組が流れて『今は辛くても厳しくても我慢して頑張れば明日は太陽が昇ってくる』との日本人の気質の良さが失われつつあることです。

そこで考えたいのは『桜の綺麗さ』と『スポーツの感激』です。花屋さんの店先には何とも言えぬ綺麗な花が美しさを競って並んでいます。人が丹精を込めてハウスの中で温度の調整から、肥料や消毒そして水や光の管理までも手をかけ時間をかけて育てたのです。この綺麗な花を、足を止めて買い求める瞬間の幸福感は、他の買物とは違った嬉しさがあるのです。

でもどんなに綺麗な店先の花でも、春に咲く桜には勝てない気がします。開花の予想も桜だけ・花見と言えば桜をさし、満開の様子は春爛漫と呼び人々はウキウキしながら開花を待ち望むのです。桜が咲けば「ウワ〜綺麗!・春が来た!」と感嘆の声をあげるのです。

どうして桜は綺麗なのでしょうか?調べてみました。驚くことに秘密は冬の寒さにあったのです。さらに調べると、桜の名所と称される所は山間部や関東・北陸・東北に多いのです。やはり温暖な地域と言うよりは、寒さが厳しいところです。さらに調べると葉を落とし、冬を迎えた桜は、寒さに耐えながら開花の準備をするのです。寒い時期に花芽が眼を覚ますと、桜は一生懸命に花芽に養分を送り出します。そのときに寒ければ寒いほど桜は耐え忍び頑張るそうです。やがて陽射しが長くなると、寒さに耐え忍んだ桜は力の限り花芽を一斉に開花させます。土手などの桜並木は淡いピンク色のトンネルとなり、淡い色に染められた公園や山は、大勢の人が集い楽しい宴が始まるのです。

桜が綺麗なのは『厳しい寒さに耐え忍んだ忍耐力』そのものなのです。

若者が公園や体育館で運動をしています。ときはランニングしている姿を眼にすることがあります。でもその時に足を止めてまでは真剣に視ていないのです。『皆で練習しているナ』で終わってしまっているのかも知れません。

でも昨年のラグビーWカップ・大学駅伝・高校野球や他の競技でも、ルールは知らない・経験もない・実際に競技場で見学したこともなくてもTV観戦しながら、手を握り締めハラハラドキドキ負ければ声を出してガッカリし、勝てば自分が勝ったような気分で歓声を上げて感激の渦に飛び込む人は多いのです。

どうして人は同じスポーツをしている人を視ているのに、違う感情になるのでしょうか?

それは今まさに真剣に勝負をしている若者が、この舞台にたどり着くまでの間、もの凄く辛い練習に耐え忍び、怪我を乗り越え、人間関係に悩みながらも、諦めず・前向きに・真剣に・自分のプライドもあるがチームのため、親や指導者や日本のためと言葉にして、一歩一歩まえに出る姿に感動して感激するのだと思います。

*人が桜の花を綺麗だと感じるのは、桜が寒い冬を乗り越えたからです。

*人がスポーツで感動するのは辛さを乗り越え限界に挑戦して、前向きに頑張っているからです。

話しを戻します。

いまコロナ感染拡大の予防から人の集まりが制限されています。感染は抑えなければなりませんが人が人間らしく成長して、協力したり・相手を思いやったり・助け合ったり・寄り添うことが出来るようにするためには、相手の顔を視て・話を聴いて話をして・我慢したり・失敗したり・褒められたりしながら人の温もりがないと駄目なような気がします。それは赤ちゃんの成長が、お母さんやお父さんの抱っこから始まるのと同じです。TV画面のリモートでは駄目なのです。

同時に親が子どもを・教師が児童生徒を・先輩が後輩を・経験者が経験のない人に・仲間同士でも事の善悪を教えていない状態にある気がしています。悪さをしても人に迷惑を掛けることをしても[悪気はなかったのだから][これくらいは良いだろう]と優しさだけが前面に出てしまう時代になってきているようです。世界が日本を尊敬し憧れたのは、優しさに溢れたことではなく会津藩の教えではありませんが『ならぬものはならぬものです』つまり『駄目なことは駄目なんだ』と善悪をしっかり教えた鍛え方があったからです。一見厳しいように思える接し方の向こうに、本物の優しさがあるとは思いませんか。

(令和2年12月)

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HISTORY
OVERVIEW

沿革・概要

概要

校 名

拓殖大学紅陵高等学校

理事長

鎌田 淳一

校 長

森 章

所在地

〒292-8568 千葉県木更津市桜井1403
TEL 0438-37-2511 FAX 0438-36-7286

生徒数

1090名(男子709名/女子381名) ※令和5年4月1日現在

教育理念

「人生開拓」の教育理念のもと益々多様化する社会と国際情勢の中で自らの人生は自らの手で拓き、どんな逆境にも耐えうる強い精神を持って、21世紀に活躍する若者達に希望と目的をもたせ「文武両道」を目指し大学進学、クラブ活動の振興充実を主たる教育目標としてかかげている。

校 訓
  1. 国を愛し、郷土を愛し、親を敬う。
  2. 信義、友愛、礼節を守る。
  3. 学問を尊び、心身を鍛える。
教育目標

◇知・体・徳の調和と統一の取れた人間形成を目指す。
◇自分の持つ力を掘り起こし自らの人生を切り開いていく。
◇人生開拓の精神の育成を目標とする。

校章の由来

もみじの葉に校名の紅陵高を組み合わせた。紅陵とは紅葉の丘の事を言い、すなわち紅葉に映える学園を意味する。

沿革

昭和53年

木更津紅陵高等学校(男子校〉として開校

昭和55年

拓殖大学紅陵高等学校に改称

昭和56年

共学校となる

平成14年

11階建て新校舎完成

AFFILIATED
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