本学園は1903(明治36)年に山脇玄、山脇房子夫妻により牛込白銀町に實脩(じっしゅう)女学校として設立されました。3年後には赤坂檜町に新校舎を建設し、移転とともに高等女子實脩学校となりました。1908(明治41)年には高等女学校令にあわせて山脇高等女学校と改称し、発展の一途をたどりました。1935(昭和10)年には東洋一の女学校の校舎と称された白亜の新校舎を、現在の地である赤坂の丹後町に建設し、移転をしました。

「創立者 山脇 玄先生」

創立者山脇玄は、明治政府の命を受けドイツに留学し、西洋医学を学んだ後、ベルリン大学・ハイデルベルク大学・ライプチヒ大学で、法律・政治・国法(憲法)・国家学を学び、ドイツ政府から日本人初の「ドクトル」の称号を授与されました。帰朝後は、明治憲法・皇室典範の草案の起草に参画した後、行政裁判所長官を務め、近代日本の国家体制の整備と維持に大きな貢献を果たしました。学校教育においては獨逸学協会学校の設立と運営の中核として活躍しました。また、貴族院議員を長く務め、1919(大正8)年の帝国議会において、日本憲政史上初となる「女性参政権付与」の演説を行うなど、「女子教育の充実」と「女性の社会的地位の向上」に生涯を捧げました。

「初代校長 山脇 房子先生」

初代校長 山脇房子は、大政奉還が行われた1867(慶応3)年に、松江藩の小倉家の長女として生まれました。幼少時は何一つ不自由なく育てられましたが、武士階級の凋落により次第に暮らし向きが悪くなっていきました。それを嘆かれたとき、父親が「これからの時代は、女でも学問さえあればどんなにでも偉い人間になって活躍できる」と諭しました。これに発奮した房子は家族が驚くほどの猛勉強に励み松江の女子師範学校に入学します。卒業1後、満14歳で仙台に赴いて宣教師のもとで英語を学び、18歳からは東京でさらに学問を深めました。
その後、山脇玄と結婚し、欧米人との交流を通して、西洋人女性の高い教養と品格のある立ち居振る舞いに接し、「西洋人女性に負けない高い教養とマナーを身につけた日本女性の育成」を目標として女子實脩学校の初代高等を務めました。また、下田歌子氏・鳩山春子氏らと大日本婦人教育会を結成するなど、女性の地位向上にも大きな功績を残しました。