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ありし日の母校: 校長日記<嗚呼大倉山五十年>東横学園大倉山高等学校

2012年6月29日 (金)

ありし日の母校vol.53<クラブ活動:昭和39年(1964)卒業アルバム(その2)>

昭和39年(1964)卒業アルバムから(その2)です。

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その1は平成24年6月26日記事をご覧ください。

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※また、いままでの「ありし日の母校」は左欄カテゴリーからすべてご覧になれます。

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【クラブ活動】

この時代は今のように課外活動としての部活動ではなく、まだクラブ活動(特別教育活動)と呼んでおりました。学習指導要領によって必修ではないが正規の課程とされていた時代ですね。

写真部 鈴木忠重先生が顧問ですね。お若き日の鈴木先生です。

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書道部 顧問の先生を私は存じ上げませんが、蝶ネクタイをなさっていてお洒落でいらっしゃいますね。

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理科部 天体望遠鏡が後ろにあります。天体望遠鏡は今も高価ですが、このころの天体望遠鏡は今と比べ物にならないぐらい高価でした。 夕方の星空をみあげたのでしょうが、私が在職していたころの大倉山にはもう天体望遠鏡はありませんでしたから羨ましい気がします。女性の先生が顧問でいらっしゃいます。

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美術部 達磨ストーブを囲んで。 こちらの先生もお名前を存じ上げなくて申し訳ないですがお若い先生でいらっしゃいますね。

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演劇部 大変多い人数ですが、この時代は全国的に高校演劇が盛んでした。私の宮崎の出身高校も大層活発な演劇部で、10年連続以上で県代表として全国大会に出場したものでした。

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鼓笛部 鼓笛隊の制服が可愛らしいですが、顧問が後の校長3の正井兵次郎先生でいらっしゃいます。 私が就職したころには鼓笛部はなくなっていましたが、打楽器は後々まで音楽室にありました。

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文芸部 黒板の文芸部の文字が鏡文字になっています。単に逆さまに現像されたものかもしれませんが、ひょっとして趣向をこらして黒板に鏡文字を書いたのだとすると、さすが文芸部と思いますね。

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顧問はお若きころの足立先生でいらっしゃいます。

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JRC(神奈川青少年赤十字) このころは青少年赤十字運動が盛んで各校に支部がありました。本校のJRCも支部の一つです。

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手芸部 刺繍はもちろんですが、テーブルクロスも皆さんで編まれたものでしょうね。顧問の先生が写っていませんが、生徒の皆さんだけで自主運営していたとしたら、さすが草創期の皆さんです。

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【授業】

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後ろの差しこみ棚にテニスラケットが飾られています。昭和三十年代初頭の皇太子ご成婚(今の両陛下)からまだ10年をたっていないころで、ロイヤルカップルにあやかって大変なテニスブームだったことをしのばせる写真ですね。

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一クラスの人数が多いですね。両方とも60人ちかく一教室に入っています。

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本校生徒総数が最高だった時が昭和40年代に入ってから500人を超えたことがあります。そのときは一学年3クラス、全校9クラスですから一クラス60人ちかい人数であったわけですが、このときはまだ2クラス。それでも60人ですから、往時をしのばせる貴重な写真です。

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以上? ?? ??

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2012年6月26日 (火)

【ありし日の母校vol.52】 授業・行事 昭和39年(1964)卒業アルバム(その1)

今日は、昭和39年(1964)卒業アルバムに掲載されている写真をご覧に入れます。

その1、その2の二回に分けて掲載します。

大方の人にとって、卒業アルバムは滅多なことでは、ひもとかないものだと思います。当期の卒業生の方も懐かしくご覧ください。

※写真はクリックすれば拡大します。

【富士登山】

草創期の大倉山高校が富士登山を実施していたことは、これまでにも書いてきましたが、女学生の登山はなかなか骨が折れたことだと思います。 でも、さわやかな表情が、大倉山高校女学生のたくましく元気な登山をしのばせます。

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「中ちゃんずの山歩き 山歩きは、気持ちいい〜〜」というブログに写真付きで書かれている道程が、1964年卒業の皆さんが登られたものと推測できます。
↓ ↓

【軽井沢の林間学校】

草創のころは軽井沢で林間学校をやっていました。二期生の市川さんに思い出話しをうかがったことがありますが、楽しさも苦労もあったようです。

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【校庭】

鉄筋コンクリート体育館の建つ前の広々とした校庭です。日本全国にフォークダンスが流行していた時代ですが、本校も校庭で行っていました。フォークダンスのメロディがご近所に心地よくながれたことでしょう。

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(つづく)

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2012年1月18日 (水)

【ありし日の母校vol.51】 昭和38年(1963)卒業アルバムより:昭和37年度の生徒会役員ほか

久しぶりの「ありし日の母校」です。第51回となります。

今までの「ありし日の母校」は、左欄カテゴリーを
クリックしてください。すべてご覧になれます。

きょうは、昭和38年(昭和37年度)の卒業アルバムより掲載したいと思います。

※写真はクリックすると拡大されます。

↓ まず、この一枚をご覧ください。

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黒板に「会長」と書かれ、「矢野朝子」というお名前をはっきり認めることができます。

同窓会ブログ「山桜」 でも分かるように、現在、本校同窓会の会長は矢野朝子さんが務めておられますが、その矢野会長さんが、昭和37年度の生徒会長でいらっしゃったわけですね。第4期の生徒会長さんです。

前列左からお二人目が矢野朝子さんだとお見受けしました。

それでは、次の写真に移ります。

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↑ テニス部の皆さん。ネット支柱が木製ですね。玉がコートに置いてありますが、軟球でしょうか。

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↑ 写真部の皆さん。多いですね。14人もいます。当時、写真部はけっこう花形クラブだったと思います。 顧問は、鈴木忠先生。後に教頭におなりになって、武蔵工大付属中高(現都市大付属)教頭に転出なさいました。 とても若々しい。

私が赴任したときは写真部は玉応先生でしたから、写真部といったら玉応先生と思っていたのですが、その赴任の前、鈴木忠先生が写真部とは意外です。

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↑ 富士登山の模様です。人数が少ないのでワンゲル部でしょうか。生徒8名に引率4名のように思えます。 第二代校長4、正井兵次郎先生が後列にいらっしゃいます。

左側のごみ箱にサロンパスと書かれてあるのが御愛嬌ですが、ご愛嬌といえば、記念集合写真なのに煙草を吸っている先生がおられること。 すごいな。私も愛煙家ですが、集合写真ではタバコを吸わないなあ・・・・・いやどうだろう(笑)。

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↑ 春季球技大会。りりしい皆さんですね。挨拶をされているのは正井先生のようです。上の段はバスケットボールですが、コートラインが石灰で書かれてあります。 体育館ではないので、一々書いたのですね。大変な時代でした。

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↑ 運動会の模様です。運動会、体育祭といえば昭和40年代の皆さんには等々力グラウンド、昭和50年代後半以後の皆さんには三ツ沢グラウンドですが、この頃は学校グラウンドで実施していました。

独立した体育館ができるまでは、校庭(グラウンド)がまだ広かったために、そして、このころは学年二クラス編成だったために、校庭で実施することができたわけです。

それはそうと、グラウンドから校舎に上る土手がとても奇麗に刈り込まれ、灌木(かんぼく)の並びが良いですね。

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↑ バレーボールの授業のようです。ネット支柱は、もちろん木製。土手の上に、付属の大倉山幼稚園の園舎と滑り台、ジャングルジムなどの遊具が見えます。

この幼稚園舎の跡地に、鉄筋コンクリート、えんじ色のスクールカラー屋根の体育館が立つことになるわけです。

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↑ 授業のようす。最右列四人目の人が欠席のようです。冬服であるところをみると、風邪かなあ?

黒板の字が読み取れませんが、板書の様子からは「国語」でしょうか。 黒板横の棚にお花が生けてあります。 右側のは、一輪挿しがかなり高い所にあるようです。 女子校らしいですね。 女子校らしいといえば、三つ網の髪型が当時をしのばせてくれます。

また、当時をしのばせるといえば、木製の机もそうですし、その上に置かれてあるセルロイド製の筆箱もそうですね。 私にもとても懐かしい筆箱です。

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↑ これは何のときの写真でしょう? 花弁をかたどったパフォーマンスですが、運動会のマスゲームでしょうか。 マスゲームにしては人数が少ないし、向こう側にいる人の出している足が一人だけ違うので、これは指導の先生が許す分けがないことを考えると、まず運動会等ではありませんね。

卒業アルバムに載せるために撮ったとも考えられますが、それなら制服でも良いわけで、体操服に着替えているところをみると、体育の時間でしょうか。でも体育の時間でも出す足が右左ちがうのは許されないでしょうから、違うなあ。

体育の授業が終わったときに、卒業アルバム用に撮ったのかもしれません。

いやいや、それは違いますね。卒業アルバム用記念写真なら、全員の御顔が分かるように撮るはずです。 後ろ姿になるようなパフォーマンスは撮らないでしょう。

うーーん、けっきょく、私には分かりませんが、 でも、この花弁パフォーマンス写真はとても女子校らしいものだと思います。

以上、久しぶりの「ありし日の母校」でした。 

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2011年10月25日 (火)

昭和60(1984)年の卒業アルバムから@ありし日の母校vol.50

30年ちかく前の卒業生Aさんからお電話をいただきました。

昭和50年代半ばの卒業ですから、大変なつかしくお話ししました。

私が部活動顧問をしていた人です。

学年担任として受け持ったのではありませんが、部活顧問だったものですから、なつかしく思い出してくださったというわけです。

私がまだ20代でしたから、寄る年波は早いものだとあらためて思いました。

そうしましたら、Aさんも、自分たちも40代半ばを過ぎたとおっしゃるので、それはそうだなあと、お互いに過ぎし年月を、電話ながら、かなり長時間振り返りました。

それで、きょうは1984年のアルバムから当時の部活動と体育祭の写真を載せたいと思います。

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2011年9月22日 (木)

鬼押し出し@1978年の林間学校の帰りに立ち寄ったところ≪ありし日の母校vol.49≫

他サイトの紹介なので、<ありし日の母校>カテゴリーに入れてよいかどうか自信がなかったのですが、あとで探しやすいようにカテゴリーをそのようにしました。ご理解願います。

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以前にデイリーポータルというインタネットサイトをご紹介したことがありますが、(本年1月24日記事) きょう、そのサイトを訪れましたら、群馬県の鬼押し出し公園のことが紹介されていました。

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本校の白樺湖林間学校の帰りに訪れる観光スポットはその年の学年によって様々です。

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諏訪大社だったり、

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諏訪湖間欠泉だったり、

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諏訪湖蚕糸センターだったり、

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富岡製糸工場だったり、

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八ヶ岳山麓の尖石(とがりいし)考古博物館だったり、

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蓼科アミューズメント水族館(日本一高地にある淡水魚水族館)だったり、

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マリーローランサン美術館だったり、

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国宝の松本城だったりと、

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いろいろとありますが、

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この鬼押し出し公園もその一つです。

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鬼押し出しを、いくつかの学年で訪れたのを覚えていますが、いつの年だったかを正確に覚えているのは、1978年の林間学校の帰りです。

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私が本校に赴任した二年目の年だから間違いありません。

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その鬼押し出し公園についての記事をご覧になって林間学校を懐かしんでいただければと存じます。

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文章を読むだけでも楽しいのが、デイリーポータルなので、どうぞお読みください。

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↓ ↓

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http://portal.nifty.com/kiji/110920148123_1.htm

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2011年7月31日 (日)

草創期のクラブ活動@1961年のアルバムから(ありし日の母校vol.48)

久しぶりの「ありし日の母校」です。

部活動(学習指導要領では、昭和50年代ぐらいまでクラブ活動と呼んでいました)についてはこれまでも掲載してきましたが、きょうは1961年アルバムから、学校草創期のクラブ活動をご紹介します。

↓ 書道部。女性の先生が顧問です。お名前は何とおっしゃるのでしょうか。私が存じ上げない先生です。後ろに書が飾ってありますが、漢文と仮名文字と両方が掲げられています。

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↓ テニス部。部員が18名です。私が本校教師になった昭和52年以降はテニス部は本当に少ない人数で、ときには部員が一人もいなくなったときもありましたが、草創期はこんなに多かったのですね。考えてみれば、今の皇后陛下美智子妃が天皇陛下とおつきあいなさるようになったきっかけがテニスだったということで、1960年代は大変なテニスブームでしたからね。

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↓ バスケットボール部。この4年後より全国大会へ三年連続出場を果たしますが、この先輩方の厳しい指導があってのことですね。前列真中に座っておられるのが山口監督です。

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↓ 理科研究部。お二人の先生が顧問ですが、若い方の方はたしか国語の先生だったような気がするのですが・・・私の記憶違いでしょうか。小玉先生?

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↓ 茶道部。「掲額」に「天真流露」とあります。おかまがとても古い味わいのあるものですね。炭火でお茶を沸かしていた時代。

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↓ 華道部。17名の部員です。テニス部についで多いクラブ活動ですね。カラー写真でないため、お花のいろどりがわからないのが残念ですね。

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↓ 写真部。理科研究部の顧問でいらっしゃった先生がこちらも顧問を務めておられます。後の玉応先生が写真部の顧問になられるのは、この6?7年後のことです。

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↓ ジャケットの下のブラウス(制服ではない)がおそろいですから舞踊部かな?と思ったのですが、左から四番目の方が円形のタンバリンのようなものを持っておられるので違うかもしれません。

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↓ 後ろにピアノがありますので、ピアノ部か合唱部か、音楽関係のクラブですね。顧問の先生のお名前が分かりません。私は自分が奉職前のこともけっこう調べていて、同世代の先生のなかでは「大倉山高校に関する物知り」を自負しているのですが、先生方のお名前を知らないのは、なんとも悔しい思いがいたします。申し訳ないです。

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↓ 珠算部。私の頃にはもう珠算部はありませんでしたが、写真に写っている算盤(そろばん)は見た覚えがあります。職員室隣の印刷室が倉庫がわりでしたが、そこに長年置いてありました。でも、そういえば、いつごろから見なくなりましたけど、どうしたのでしょう?

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↓ 筝曲部(琴部)。山口秀子先生が顧問。私は山口秀子先生と直接お会いしたことはないのですが、山口勤先生とお二人の山口先生がいらっしゃったので、「秀子先生」「勤先生」とお呼びして区別していたというお話を先輩教師の先生方から聞いたものでした。

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↓ 演劇部か英語部?手に台本のようなものを持っているので演劇部かなとも思うのですが、顧問が堀口先生なので英語部かなとも迷います。堀口先生も私はごいっしょにお仕事をしたことはないのですが、同窓会総会パーティでお会いして存じ上げるようになりました。

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本日の「ありし日の母校」は以上です。

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2011年6月14日 (火)

1962年在籍の先生方と謝恩会@ありし日の母校vol.47

先生方の集合写真です。

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↑ 私が分かるのは、正井主事先生(後校長5)、豊田先生(後教頭)、小玉先生、堀口先生、山口秀子先生、鈴木忠重先生ぐらいです。

あと男性の職員さんで写真か実物かはともかく見覚えがあるような方がいらっしゃいますが、判然と致しません。

先生方も懐かしい思いが致しますが、背景の木造校舎、屋根はエンジに塗られていたと聞いています。東横学園大倉山高校と大きく屋根に掲げられたのが、ビル一つ建ってはいなかった当時の太尾平野から燦然と眺めることができたはずです。

よく刈り込まれて整然とした土手(法地)や石垣、白い手すりでふちどられた通学階段もとても美しいですね。ここを女学生が通う姿は、昭和37年当時、大変にまぶしかったと思います。

↓ 下の写真は、その当時の卒業謝恩会の模様。校内で行いました。

1962album_sotugyosyaonkai 短大学長兼務の石井校長6先生の姿が見えます。

左側の列の卒業生は三つ編みのヘアスタイル。そして奥の方に並んでおられる先生方のうち女性の先生には紋付の和服姿も見えます。いずれも当時をよくしのばせるもので、当時を知らない私にも大変なつかしい。

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2011年5月28日 (土)

(その2)体験学習@2003一年林間 in 白樺湖、霧ケ峰、鷹山牧場≪ありし日の母校vol.46≫

5月19日の記事の続きです。

2003年の林間学校。19日の記事では「私が大失敗した年の林間学校」と書きましたが、記憶違いでした。私が豆腐作りで大失敗したのは2004年(平成16年)の林間学校です。

↓ 車山からくだって霧ケ峰高原に出ると「七島八島」で休憩しましたね。

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↓ 白樺湖畔の宿舎に泊まりました。右側の写真はスタディオで船戸先生が怖い話をしているところです。このあと、肝試しに外に出ました。

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以下は体験学習の数々です。

山菜とり、団扇づくり、ソバ打ち、バターづくり、ソーセージ作り、牛の乳しぼり、豆腐作り、勾玉(まがたま)作り、魚のつかみどりと網焼き、さまざまな体験をしました。

↓ 懐かしくご覧ください。

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※ちなみに、上に書いた「私が大失敗した」というのは、恥ずかしながら、平成22年(2010)7月2日記事 でご報告していますので、未読の方は左の文字にカーソルを当ててクリックしてご覧ください。

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(以上)

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2011年5月19日 (木)

(その1)2003年一年生の林間学校 in 白樺湖、霧ケ峰高原、車山≪ありし日の母校vol.45≫

先日、付属小児童の作品の紹介を通して、本校林間学校のことを思い出したということを書きましたが、2003年の林間学校の写真で高原植物をうつしたものがけっこうありましたので、下の方に、そのいくつかを掲載しておきます。

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クリック拡大してご覧ください。

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ニッコウキスゲや薄雪草(ウスユキソウ)、ホタルフクロ、女郎花(オミナエシ)などの写真のほか、ハイキングの模様もいくつか載せておきます。

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※ところで、2003年の林間学校といったら、私が大失敗をして生徒に迷惑をかけたときの林間です。以前、記事にしましたが、覚えておいででしょうか?

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そのことは、また後日、写真を紹介してお話します。

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↓ それでは2003林間の写真をご覧ください。

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2011年4月23日 (土)

布目すすむ先生?@1962年アルバム≪ありし日の母校vol.44-2≫

4月13日の記事で、1962年(昭和37)卒業アルバムに載せられた教職員寄せ書きについてお話しました。

そのなかで、

「小玉先生の隣に絵文字のような恰好の文字がありますが、解読はまたの機会に致します。」

と書きましたが、付属小の修学旅行引率に行ったりしたこともあって、10日間も放ったままにしました。というか、この10日間に記事を書いたのは、ただの一日・・・大変申し訳ないことでした。

※ 付属小の修学旅行の模様をご覧になりたい方は、
そちらを訪問願います。動画をたくさん撮ってきました。

http://www.tcu-elementary.ed.jp/blog/

さて、≪絵文字≫の解読ですが、分かりやすいように、寄せ書きを逆さにひっくりかえしてみました。

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↑ クリック拡大していただくとよく分かりますが、≪つなげ文字≫にしてある上の段は「すすむ布目」と読める気がします。下の段は「自愛」でしょうね。卒業生に「ご自愛なさい」とおっしゃっているのだと思います。

「すすむ布目」

※ 目の箇所の右上が突き出ていますから、目ではない
かもしれないのですが、目の右上が突き出ている字は
ありませんからね。「自」でもないと思いますし・・・

人の名前だと思いましたので、「五十年史」に掲載した歴代教職員一覧を探してみたのですが、該当する名前はありませんでした。

当時いらっしゃった「布」がつく方は、布川新三郎先生。布目ではありません。

もっとも、この歴代教職一覧は、私があれこれ資料をさぐって、どうにか作成した教職員一覧ですので、漏れがあるのかもしれないなあと思ってはいます。

私が探しあぐねた先生のなかに、「布目すすむ」先生がいらっしゃったら、それで解決なのですが、それとも、「進む布○」で、何か造語かもしれないなあと思って、いろいろと考えてみました。

「布」は「しく」と読みますよね。囲碁の世界で「布石」(ふせき)といったら「碁石を置いていって陣地を広げてゆく」ことです。その「布石」の「布」なのかなと思って、あれこれ考えるのですが、良い解決策が見つかりません。

創立当初の卒業生の皆さん、教職員の皆さんのお知恵が欲しいのですが、どなたかご教示いただけたらと存じます。

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