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取得日:2024年03月20日[更新]

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校名・校歌・校章 - 樟蔭高等学校

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校名・校歌・校章

校名・校章

「樟蔭」という校名は、「樟(くす)の余芳の蔭(あやかるの意)」、つまり「楠木正成夫人のいつまでも残る遺徳(余芳)にあやかる。」という意味から付けられ、本学園が、創立の地を楠木正成(くすのきまさしげ)ゆかりの河内に定めたことに由来しています。楠木正成は巧みな兵法と知略により、後醍醐天皇の篤い信任を受け、建武の新政権成立後は河内・和泉国の守護となり、後世の人々から「大楠(だいなん)公(こう)」として慕われた南北朝時代の文武に長けた武将でした。大正時代の子どもたちも、楠木正成の武勇伝や楠公夫人・お久の方の賢夫人ぶりを伝記などで見聞きして育ったのです。現在とは異なる当時の世相の中では、楠木氏一族は映画に登場するヒーロー的な存在だったのでしょう。夫、正成の死後も、長男正行(まさつら)を始めとする6人の子どもを立派に育て上げたお久の方を偲び、「樟の余芳にあやかって」名付けられた「樟蔭」という校名には、前途有為な若者への創立者の深い愛情と、成長への願いが込められています。「樟蔭」と名付けられたことは、当時の時代背景と深く関わっています。

「菊と水」をかたどった校章も、楠公の旗印に由来しています。菊は朝廷を、水の流れは農民にとって最も大切な「水分(みくまり)の神」をシンボリックに表したものといわれています。


樟蔭校歌

樟蔭校歌の発祥
樟蔭の校歌は樟蔭高等女子学校の初代校長である伊賀駒吉郎による作詞、日本を代表する作曲家であった信時潔の作曲により、樟蔭高等女子学校創立10周年にあたる1927(昭和2)年に作成された。
作曲者、信時 潔(のぶとき きよし)について
大阪府出身。1887(明治20)年に牧師の子として生まれ、幼少より讃美歌に親しんだ。大阪の市岡中学を経て、東京音楽学校器楽部及び研究器楽部でチェロを学び、その後、同科作曲部に移り、助教授、教授を勤めた。

主な作品には、交声曲『海道東征』、歌曲集『沙羅』戦時歌謡(国民唱歌)『海ゆかば』(大日本帝国海軍の将官礼式用儀制曲『海ゆかば』とは同名異曲)、ピアノ組曲『木の葉集』、合唱曲『紀の国の歌』、『鎮魂歌』などがある。芸術音楽のみならず文科省唱歌『電車ごっこ』等を作曲。戦前戦後を通じて学校の音楽教科書の編纂、監修にも力を注いだ。

また、慶応義塾塾歌、学習院院歌、開成学園校歌、帝京中学校・高等学校校歌など数多くの校歌や社歌を手がけ、1964年に勲三等旭日中綬章を叙勲された。

1965年没。


体育大会の歌


祝歌


卒業の歌