湘南戦(浦高戦)は、盛り上がりましたけど、やっぱり、共学がいいなって思いました。バスケット部でしたが、シュートしようとすると、黄色い悲鳴で、「駄目ー」って言われて、悲しくなりました。
山形大学医学部では、湘南浦高OB会って今もあって、
現地での
家庭教師先など、その先輩筋が面倒を見てくださる、とのこと。
生ける歴史、すごいですね。
http://www.shoyukai.org/shashin/urakou-sen/浦高戦(浦高からは湘南戦)
昭和32年から45年間続いた東京を挟んでの両校の学校全体の交流。
バレー部やバスケットボール部など部分的に再開したようですね。
湘友会のサイト記事から
湘南浦高定期戦の発想は、そもそも浦和高校にあった。 浦和高校では、昭和30年代を迎え学業とスポーツの両立を目標として学校の発展に努めていた。 大学進学においては公立高校として全国的に見ても優秀な成績をおさめ、各種スポーツも盛んでサッカーはたびたび全国優勝するなど立派な成績を上げていた。 しかし、これだけで満足することなく、他校との交流によって切瑳琢磨の上、一層の充実発展をはかるべく定期戦の構想が浮かび上がった。 そこには、一高三高(現在の東大、京大)定期戦といった、かつての旧制高校時代へのひとつの郷愁があったのかもしれないし、また戦後各県の教育委員会単位にしばられがちなものから、県境を越えて交流を広げたいとする意欲があったのかもしれない。 そこで相手高として候補に上がったのは、日比谷、教育大付属、熊谷、前橋、湘南といったところで、全校投票の結果湘南が圧倒的支持を得たというのである。 それは、ひとつには、東京への距離と位置がそれぞれ似ており、サッカーや野球が全国優勝するなど、浦高同様にスポーツと勉学の両立を果たしているというのが理由のようだった。 また、1955 (昭和30)年に発行され一世を風靡した「太陽の季節」の著者である石原慎太郎氏の出身校であったことも当時の若者の関心をひいたようである。
1957(昭和32)年4月13日に、浦和高校新聞部の志村嘉一郎氏と進藤幸彦氏らが非公式の打診と取材を兼ねて、湘南新聞部を訪れたことからはじまった。 これをきっかけとし、8月17日浦和高校から木村泰夫校長、生徒会顧問と生徒会役員が来訪し、正式な申し込みを受けたのである。 当時の松川昇太郎第4代校長は「プロポーズされたものは受けたい。良い縁談だから」という意向を示し、それに沿った指導部の職員によって積極的に推進された。 生徒委員会でも「新しい伝統」を生み出そうと定期戦案を可決した。 そして「両校生徒職員の親睦、交流を図ること」を目的として、毎年1回会場を1年交代として遠征しあう、種目はその年度の実情に即してきめ、 総合成績によって優勝を決めるということになり、初年度は、野球、サッカー、ラグビー、バレーボール、バスケットボール、軟式テニス、柔道、卓球の8種目で争われることになったのである。