一高はバイトOKです。色々と自由な校風ですから、そういったこと(髪を染めてもいいのか、とか)は心配しなくても大丈夫だと思いますよ。もし不満があっても、自分の意見を言う場があるので、(生徒総会、有志演説など)そこで言えばある程度環境は変えられますし。
一高の「自由な校風」の源流は一中初代校長の大槻文彦にあります。二代目校長は「管理教育」のために生徒のストライキにあって追放されました。
/* 『青春のうた 仙台一高』(毎日新聞仙台支局、昭和50年)36−38ページ */
仙台一中の初代校長は
国語学の大家、大槻文彦。大槻は弘化四年(一八四七)東京の仙台藩邸で生まれ、父磐渓は藩校「養賢堂」の学頭であった。
大槻は明治二十八年九月、一中を去り、二代目校長には湯目補隆が就任する。
湯目はドイツ留学から帰ったばかりで、ドイツ教育を一中に持ち込み、生徒の細かなことまで干渉。生徒の反発を買い、校長排斥運動が起こる。
【校長排斥】
明治二十九年五月、仙台市の宮城野原の原っぱは六百人の仙台一中生で埋められていた。四年生の平渡信(一中四回生)が立ち上がり、激しく湯目補隆校長を非難し「湯目校長を退職させよう」と絶叫する。
創立以来初のストライキ集会はこうして始まった。
集会は「校長排斥」を決議し、生徒は県庁に向けてデモ行進を始めた。恐らく、県内最初のデモ行進であったろう。
湯目校長排斥運動のきっかけは「人間は”衣食住”などといっているが、本当は”食衣住”なんだ」の訓示というささいなことであった。ドイツ留学を終え、厳格なドイツ式教育を持ち込んだ湯目校長は「服装のことなぞ気にするな」ということをいいたかったのであろう。
しかし、これまで自由だった頭髪を三分刈りにし、洋服のボタンのかけ方まで指示する湯目校長の教育方針は、大槻校長時代に自由な学園生活を味わった生徒にはがまんできなかった。湯目校長の「食衣住」訓示は学生の反発に火をつけたのだった。
宮城野原ストライキ集会の前日、分校の日進学舎(県庁前)で開かれた生徒演説会で排斥運動の火の手が上がった。最後に立った平渡は突然、湯目校長排斥の演説を始めた。
湯目校長に不満を抱いていた生徒はたちまち同調し、あっというまに宮城野原で校長排斥大会を開くことが決められた。学校側はなんの手を打つ時間もなかった。
県側は事態を重視し、生徒の主張を認め、湯目校長の更迭を決めた。指導者の平渡、伊藤清(四回生)ら四人は三代校長の下條幸次郎の寛大なはからいで退学はまぬがれ、「四週間の停学処分」となった。
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