>さらに、学区をはずして全県一学区になってから10年近くになるが、その良かったころの一高には戻っていない。
>
>それほど一高が素晴らしい高校だったら、成績上位の生徒は二高など見向きもしないで、一高に集中していたはずだが、10年近くたってもそうはなっていない。
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>これが「本来二高に行くはずの生徒を当時は一高に集中させていた」という大きな証拠の一つになる。
/*『地方公立名門校』おおたとしまさ、2018年
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(20〜23ページ)
1960年代の前半までは、東大合格者数ランキング上位を、日比谷・西・戸山・新宿・小石川・両国などの都立高校が占めていた。中でも日比谷は戦前まで遡っても不動のナンバーワン。1964年には193人の東大合格者を出していた。現在の開成とほぼ同じ規模である。
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しかし一部の都立進学校に優秀な生徒が集中する状況は好ましくないとされ、1967年、東京都は「学校群制度」を導入する。都立高校を数校ずつの「学校群」に分け、学校ではなく学校群を受験するしくみに変えた。
たとえば日比谷は三田と九段と同じ学校群になった。日比谷に入学したい受験生はその学校群を受験する。しかし合格しても、三分の二の確率で三田か九段かに割り振られてしまう。要するに、優秀な生徒を分散させるため、受験生が好きな学校を選べないようにしてしまったのだ。…
その結果、たしかに日比谷は絶対王者ではなくなった。しかしそれは、優秀な子供たちが都立高校に分散して都立高校全体のレベルを底上げするのではなく、優秀な子供たちが私立・国立中高一貫校に流れ都立高校全体が凋落するという皮肉な形で成し遂げられた。
長い年月をかけて形作られた「水路」に堰を設けてしまったため、「水」が「バイパス」を流れるようになり、さらにはそちらが本流となってしまったのだ。
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そのあとに続く1970年代は、折しも社会的な教育熱が高まり、高校進学率が一気にほぼ95%にまで達する時代だった。塾が乱立したのもそのころだ。「バイパス」を流れる「水」はその量と勢いを増し、新しい「水路」を深く大地に刻み込んだ。
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1982年に東京都は学校群制度を廃止しているが、時すでに遅し。都立高校の人気が復活することはなかった。
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東京都の学校群制度導入(1967年)から廃止(1982年)までは15年。
宮城県の学区制導入(1977年)から廃止(2011年)までは2倍超の34年。