共通1次導入直後期=学区制導入直後の1980年代前半頃の話。
浦和熊谷川越は全員数3までやった。
浦和は高2の3学期までに文理問わず数3まで終わらせた。熊谷、川越は数3終了が高3の1学期まで掛かった。
浦和は、高3で文理クラスに分けたのかは不明だが、文系3〜4理系6〜7の割合で理系優勢だった。文理とも、殆ど全員国立が第一志望で共通一次試験を受験。現役では国立専願者が多かった。早慶受験して受かっても現役では蹴って、駿台東大クラスに行く者多数。当時も現役進学率は30%程。文理を問わず国立志向が強く、全国の旧帝大に合格者を出していた。
熊谷は3年間文理にクラス分け無し。熊谷は入学時点から上下の学力差が大きく、上は東大理3京医が複数出る年まであるほど優秀な一方、
数学だけでなく全体的に落ちこぼれてで日東駒専レベルの私文専願者も多く、同じクラスで玉石混交状態だった。現役進学率は40%台。浦和とは学力分布が大きく違っていたにも関わらず、駿台
模試受験者は浦和と同じ位多かった。
川越は3年生は文理別クラス分け。文理比率は半々。クラスも半分ずつ。
文系クラスも数3までやった。数3αが数3教科書、数3βが数1の共通1次マークシート対策の問題集解く演習授業だった。
理系はほぼ全員が共通1次試験受験。文系は共通1次受験者が半分。残り半分は
数学理科は捨てて私立専願。浦和熊谷に比べ駿台
模試受験者が少なかった。学生運動が盛んだった影響か、文系は特にジャーナリスト志望で早稲田を志望する者が多かった。早稲田西武沿線居住者は高田馬場に直通で早稲田に近いということも要因。川越では文系は東大京大一橋に届かないと、外語大を特に志望でもしない限り、地方帝大でも国立は志望しないで、早慶専願に割り切るのが定番だった。その点文系でも地方国立志向の高い浦和熊谷とは違っていた。現役進学率は共通1次導入した当時は50%を少し割る程度だったが、数年間で難関国立志向が高まり急落し40%を割りだした。
1979年の学区制導入前までの進学実績も高校入試
偏差値も序列は浦和>>熊谷>川越だった。
浦和熊谷の国立志向、川越の私立志向は学力差の反映だったともいえる。学区制導入期は西部の浦和に行けない層が川越に回った為、進学実績も
偏差値も上がり県内2位となったが、勉強を優先しないあの学風は変わらず、学区制撤廃で最優秀層はやはり浦和に行くようになり、川越は元に戻ったと言える。学区制時代の進学実績向上は張りぼてだった。
今、中高一貫の国立私立進学校では中学3年時には高1の数1と数Aは終わらせている。高1で彼らは数2と数B終わらせ、高2までに数3は終わらせる。
それを浦和は高1項2の2年間で数1から数3まで一気に詰め込んでいたわけだ。今はどうか知らないが、先取りで教科書は早く済ませて、高3は受験用の演習の授業にしないと、とても東大合格者を多数出すことは出来ない。
今の川越は、2年生で文理分けて、3年生では文系は国立クラスと私立専願クラスに分けている。
ぶっちゃければ、高校のカリキュラムは理系を選抜する為に出来ている。
数学が出来なければ国立無理で、
数学が出来ても物理化学ができなきゃ理系には進めない。
80年代〜90年代前半の受験人口が多かった時代、文系は一橋より早慶上位学部(経済、政経、法)が格上にみられていた。中央法もブランドだった。実際に司法試験合格は東大、早稲田、中央がつねにトップ3。
不況で70年代までの国立人気が復活したんです。社会にも在野の精神が消えたかもね。
80年代〜90年代前半の受験人口が多かった時代も、一橋の方が早慶上位学部より遥かに格上でした。司法試験志向の大学とそうでない大学があって、東大早大中央はその志向が強く、一橋慶応は弱かっただけの話。中央は頭悪いのに司法試験に挑む身の程知らずが昔から山ほどいる。多浪の末一生終える者も少なくないんだよ。東大も官僚試験失敗して司法試験にシフトして結局受からず一生終えてしまう者もいる。一橋と慶應は昔から民間企業の請けが良く就職貴族だったから、始めから司法試験に目もくれず一流企業に入って行った。ハイリスクの司法試験をわざわざ受けずに済んだし、東大のようにプライドが高過ぎず合理主義者が多かった。
因みに80年代〜90年代前半の全盛期の川高でも、現浪合わせて東大は文系クラスに1人平均、一橋もクラスで2人か3人しか受からなかった。要するに東大一橋を受けられる学力があったのはクラスでせいぜい10番位までで、受かるのは3人から4人位。東大一橋受験者は滑り止めの早慶は確実に受かった。
早稲田はクラスのほぼ全員が受けて、クラスの半分までに入ってれば受かったよ。
数学が全く駄目でも英数社3科目だけ頑張って
私立専願で早稲田政経受かる子も結構いたよ。