昭和38年
偏差値は笠工→岐商→長良であった。笠工は高専設立後大きく下げる。岐山→加納であった。
ウチの親父もお袋も昭和30年代
長良高卒業だが、当時は、高校受験で市内に学区制があって、卒業する中学校によって、受験出来る普通高校が限定されていたそうだ。
だから、昭和30年代前半に高校を卒業した高齢者の方々の場合、岐阜高に進学できる学力があっても、中学校の指導で長良高進学した方が結構多い。
そういう方が一定数いたので、昭和30年代前半の長良高は、東大に3名程度、名大に20名弱程度合格していたらしい。
但し、当時は、女子の場合、市内4校(岐山は昭和34年設立)に進学すれば、就職も結婚も困らない時代だったので、長良高校でも4割は就職組だったそうだ。
ちなみに、オヤジは進学組で真ん中程度だったらしいが、滋賀大経済に進学している。中学の同級生には一橋大からメガバンクの役員になった方もある。お袋は、就職組で、担任から推薦で岐女短へ行きなさいと言われたそうだが、金融関係に就職したとのことだ。
当時は、今のように
偏差値で高校難易度が輪切りにされていなかったということのようだ。
ちなみに、親父は当時の私大は、早慶以外は全部簡単に入れたって言います。早慶は、そこそこ難しかったらしい。