灘や開成くらい飛び抜けてたら、高校でもステータス云々言う資格あると思うよ。日本中が知ってるからね。でも、東海ってそこまで全国区ではない。勿論凄い学校だけど。そう言えば、ここは一宮の板だね。話がずれてきたけど、そういう意味ではステータス云々言わなくても一宮も明和も愛知のトップ校だから、自分に合う校風の方に行けばいいのではないかい。
先生は叡知聡明にして、彼のする話は、未熟者の私には、いつも難解であった。しかしひとつだけ、私の心に鮮明に刻まれている先生の言がある。それは以下の事である。
先生の友人の子供が高校に入学したと聞いた。私は彼に尋ねた。
「それは良い高校ですか」
先生には「良い」という言葉が引っ掛かったようだ。
「良いとはどういう意味ですか」
私は答えた。
「
偏差値が高く、程度の高い大学に行ける高校です」
彼は私の最初の質問には答えず、代わりに私を叱責した。
「大学の合格実績や
偏差値で、高校の良し悪しは決まりませんよ」
私は先生に反論するのに臆さない生徒だった。
「しかし先生、
偏差値の高い大学を出る人は有名企業に行く傾向がありますでしょう」
「そうですね。有名企業に行くことが目的の人には、
偏差値の高い大学、それに進学するのに適した高校、というのは良い学校なのかもしれません。ですが全ての人がそれを望むわけではありません。人口、70億を数える我々人類の全てが画一的な生活をすることをあなたはどう思いますか?つまりどこの国に行っても皆同じような格好をしているのです」
「それはさぞかし寂しいことでしょう。旅行が生き甲斐の人には地獄とさえ言えるかもしれません。しかしそれが高校とどういう関係が?」
「同じですよ。金子みすゞを知っていますか?」
「童謡詩人でしたか?詩を拝見したことはありませんが」
理系人間の私は詩歌には疎かった。近代詩人を片手の数言うのも怪しい。先生は私の無知を責めるようなことはせず、そのまま説明を続けた。
「ある詩の一節に『みんなちがってみんないい』という文句があります。どう生きるか、細かく見れば、どの高校に行くかも個々人の自由です。つまりどれが良い高校かなんては人によって違うんですよ」
「では
偏差値の高さを物差しにしたら、という制約がついていたらどうですか?」
先生は優しく微笑んで、
「ひとつだけ確かなことが言えます。人様の高校を批判する人も、自分の高校を自慢する人も大したことはありません」
「なぜですか?」
「そういう人は他にすることがないんですよ。要は実のある生活を送れていないんです。己を磨き、他者を尊敬して生活している人には、高校が大学がどうとかを言っている暇はないのです。これは私の経験によるので憶測の域を出ませんが、高校の事でとやかく言う人は大抵、あなたの言う『良い』大学には行けていないか、今の生活が充実していないかのどちらかです。あなたも所属する高校の事などに気を使って、生活を疎かにするようなことはあってはいけませんよ」