そりゃそうだろ
群制度の時は桑名から四高受けないんだから
群制度の意味調べなよ
郡制の頃 桑名高校普通科でした。
その時自分のクラスから東大 京大 各一人受かってましたよ。
高校受験も確かに 桑名の方が難しかったです。
でも勉強をしない最下位層はどこの高校でも変わりはなかったと思います。
他質問の回答からのコピペですが、
1995年入試
◎桑名高校(卒数598 内理数・普通科355?)
東大4 京大2 名大33 阪大5 一橋1 東工1
東北1 神戸3 早大14 慶大7
◎四日市高校(卒数479)
東大2 京大7 名大11 阪大2
北大2 東北1 神戸1 早大10 慶応5
◎四日市南高校(卒数439)
東大1 京大1 名大14 阪大3 東工大1
北大1 東北1 神戸1 早大7 慶大3
京大以外は1群の2校を合わせてようやく
桑名高校と互角といったところ。
別に桑高が圧倒的に良かったわけでもないけど
普通科、理数科の卒業生数を考慮すると
率では桑名の方が大分上に見える。
私が大学受験したのは1991年ですけど、その頃も、上に書かれている1995年の実績と同じような感じでした(うろおぼえですが)。
ただ、私は津西でしたが、桑名は例年京大・阪大は少なく、2群のほうが京大・阪大は多かった印象はあります。
北勢は名古屋・東京志向で中勢は関西志向ということなんでしょうけど。
学校群の時代は基本的に桑員地区の子は桑名高校へ、三泗地区の子は1群へ進学していましたから、両地区の人口規模や定員を考えると本当は1群の2校の方が合格者の絶対数では桑名高校を大幅に上回ってもおかしくはないはずですが、なぜかそうなっていないのですね。
当時の桑高は商業・家政科もありましたから、4年制国公立大学へ進学する可能性があるのは上の人が書いているように理数科・普通科の350人程度のはずだったと思いますが、それでも1群の2校(すべて普通科)合わせての卒業生数900人超と比べても互角の数字ということは「率」では相当桑高の方が上だったということですね。これはどうしてなんでしょうか?
>>「率」では相当桑高の方が上だった
そういう観点で考えたことなかったが、確かに四高と四南合わせた進学実績は、桑名より遥かに上にならないと本来おかしい。
四日市の優秀な中学生が桑名へ進学していたわけでもないのだから。
今だって四高で一番多いのは桑名の大山田地区(陵成、光陵)出身者だからな。
郡時代の桑名高校も陵成、光陵出身がやたらと多かったらしい。
親の学歴が高く、教育熱心な地域の中学生がどこに進学するかで、高校の進学実績は左右される。
「都立高の復権」とか「堀川の奇跡」とか言われているのも、本質は優秀な中学生を特定の重点校に集めただけの話し。
ありえないけど、もしも名古屋の名門公立(旭丘や明和など)へ桑名から越境して受験可能になれば、誰も四高なんて目指さなくなるよ。
四高が郡制度で凋落したのも、郡廃止で復活したのも、県教委がそのように政策的な誘導をした結果というだけのこと。