健康的にのびのびと育ってきた当たり前の人間ほど、それまでの自分の経験のみから導かれた世界観から抜け出すのは難しい。それは生まれつき才能が無いという事とは無関係です。
人類は観測事実がそれまでの宗教的世界観では論理的には説明できないことから、科学を生み新しい法則を見つけてきましたし、地動説も相対論も量子力学も、もとは常識を疑う冷徹な論理から生まれた仮説だったのが、今や人類共通の知となりました。哲学だって当たり前とされていることをとことん疑うことから始まったと思います。
それは個人でも同じ事で、おぎゃあと生まれてこの自然豊かな鹿児島の地でのびのびと育った子供が、その様な知性を個人として内在させているはずはないし、最初一人でそれが上手にできないから能力がないなどと言うのはあまりに乱暴な話です。
数学なら自然数から複素数まで、人類が何千年もかけて受け入れてきた歴史を生徒個人がたどるわけで、そこで強烈な葛藤があったからと言って能力が低いなんてことはまったくありません。オイラーやガウスなら話は別でしょうけど。
豊かな情緒的世界で育ってきた子供達に、その非常な論理の世界への橋渡しをすることが進学校の役割でしょう。
基礎から論理をツールとして膨大な学問の体系が形成されていることを理解する事が最重要です。その事を理解するためにのみ高校での問題演習があると言っていいと思う。
東大入試はまさにそれを測っている。
約40年前の卒業生です。東大合格がゼロだの3人だのという話を聞いて、愕然としました。我々の時代は現役・浪人合わせて、毎年10人超は合格していましたし、九大も50〜70人はコンスタントに合格していました。私は東大文一を失敗し、一浪して九大法学部に行きましたが、今でも少し肩身の狭い思いをしており、今まで一度も同窓会(クラス会も含めて)に出席したことはありません。まあ、そういうことを思うこと(肩身の狭い思い)自体が、当時の鶴丸の悪い雰囲気だったのかなぁ、と思っています。なお、今は某地方都市で弁護士をしており、社会的には「落ちこぼれ」の中には入っていません。
当時、鶴丸で進学校の看板を背負っていたのは、上位3割(150人)ぐらいだったと思います。わたしは平均以下のただ在籍しているだけの生徒でした。それでもプライドだけは高くて浪人して旧帝に入りました。今思うと、鹿児島県全体が鶴丸を過大評価して、鶴丸に在籍していたら皆、難関大学に入れるという幻想(というか集団催眠?)にかかっていたような気がします。その幻想から目を覚ますには、ラサールの先生を定期的に招いて指導法を学ぶとかして、教師に危機感を持ってもらうしかないと思います。正直、指導法さえしっかりすれば、東大京大に合計50人ぐらいは合格できるような優秀な生徒が集まる高校だとは思います。