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記事一覧

2024(令和5)年3月 御命日法要について 2024年03月12日(火)08時00分

私たちのちかい 一、自分の殻に閉じこもることなく
穏やかな顔と優しい言葉を大切にします
微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように
一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
しなやかな心と振る舞いを心がけます
心安らかな仏さまのように
一、自分だけを大事にすることなく
人と喜びや悲しみを分かち合います
慈悲に満ちみちた仏さまのように
一、生かされていることに気づき
日々に精一杯つとめます
人びとの救いに尽くす仏さまのように


「春を待つ」という語は、日本では古く万葉の時代から愛されてきたといわれる。西行法師は「おいかはる春の若草待ちわびて原の枯野(かれの)に雉子(きぎず)鳴くなり」と、若草が生え替わる春の訪れを待ちわびて鳥が鳴いていると歌う。待ちわびる、待ちどおしく思うこころが読み取れるとともに、自然との一体感がひびきとして伝わってくる。最近は、天気予報が詳しく春の到来を予想してくれる。そのせいか、春の到来を待ちわびることも少なくなった。科学技術の進歩により、即刻結果がでることで待たなくてよくなったとも言えよう。待ち合わせも変わった。時間に遅れても携帯電話ですぐに相手に知らせることができるからだ。昔はそうはいかず不便だった。しかし、遅れた私を信じ待ってくれた相手の行動に感謝し、信頼の絆が強くなったことを覚えている。「待」は、待つというだけでなく、「頼りにする」という意味がある。「期待」という熟字がそれを示している。何かに頼らずに我々は生きていけない。自分一人の力で生きていると思いがちだが決してそうではない。周囲に支えられ、大きな力に身をゆだねて生きていると言ってもいいだろう。こう見ていくと「待」の字には、限りなく相手を思うこころ、そして優しささえ感じられる。親鸞聖人は「浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし」と述べられている。単に出会いを待つのではなく、聖人の弟子に対する温かな思いが込められているのである。

「2024(令和6)年3月1日(金曜日)本願寺新報『赤光白光』より」


3月御命日法要
○ 日時 3月12日(火)13時30分〜
○ 場所 礼拝堂
○ 勤行 正信念仏偈
○ 法話 工藤恭修 師(浄土真宗本願寺派布教使)

2024(令和6)年3月 今月の聖語・言葉について 2024年03月02日(土)08時00分

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今月の聖語 ・・・ 正門聖語板
今月の言葉 ・・・ 教室掲示今月の聖語

【今月の聖語】
「愚者三人に智者一人」とて、何事も談合すれば面白きことあるぞ。
『蓮如上人後一代記聞書』

今月の聖語は、蓮如上人の言葉です。愚者三人でも智者一人分の知恵が出るように、仲間と寄り合って話し合うことで、良い知恵が浮かぶということです。また「談合」とは、話し合いや相談するという意味です。ことわざにある「三人寄れば文殊の知恵」と同じたとえです。自分ひとりでは、考え方が狭まってしまい、なかなか良い知恵が浮かばないことがあります。そんなときに、他の人の意見を聞き、人と話すことで広い視野で考えることができます。
ところで「三人」という人数ですが、話し手と聞き手、そしてそれを客観的に見る人という、非常にバランスのとれた形だそうです。二人だと意見の対立が起こる場合もあり、その場に客観的に見る人がいれば、話もこじれにくいというわけです。一人で考えて良い案が浮かばないときは一人で悩まず、まわりの人と積極的に談合してみてはどうでしょうか。


【今月の言葉】
足ることを知らない者は 富んでいても貧しい。 『遺教経』

今月の言葉は、お釈迦様が最後に説かれた説法をまとめた『遺教経』の一文です。私たちは、お金や物など欲しい物が手に入っても、「もっと欲しい、もっと欲しい」と新たな欲が起こり、それはとどまることを知りません。人間はそれだけ欲深く、足ることを知らないのです。足ることを知らない人は、いくら経済的に富んでいても、満たされず心は貧しい。そのことをお釈迦様は見抜かれ、反対に「足ることを知る人は、貧しくても富んでいる」と仰っているのです。
1つの例えとして、半分の水が入っているコップがあったとします。これを見て「水が半分しか入っていない」と考えるのではなく、「水が半分もある」と考えれば、満足度が増します。私たちの欲にはキリがありませんが、この例えのような考え方をすれば、少しは満足な気持ちになるのではないでしょうか。

合掌

令和5年度 涅槃会 2024年02月09日(金)13時00分

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本日10時より本校講堂において、涅槃会を勤修いたしました。この度のご講師は、本願寺派布教使の津守秀憲先生にご法話をいただきました。

津守先生は仏教の暦の読み方を紹介され、お釈迦さまが涅槃に入られてから、今年で2567年に当たるそうです。そのお釈迦さまが本当に説きたかったものが、阿弥陀さまのお救いが説かれた『仏説無量寿経』であり、その阿弥陀さまが「必ず救う」と仰ってくださるのは有難いことです。私たちは普段、なかなか相手に責任を持って「必ず」という言葉をつけて言うことがありません。

津守先生があるお寺へご法話に行く際、電車が止まってしまい、タクシーに乗られたそうです。その時に「13時までに着きますか?」と尋ねたところ、運転手さんから「行けます、行けます、たぶん」いう返事が返ってきました。タクシーは時間通りに到着したのですが、運転手さんの「たぶん」の一言で、津守先生は「時間どおりに着けるのか」まったく安心できなかったそうです。もし阿弥陀さまも「たぶん」という言葉が付いていたなら、私たちは安心して手を合わせられず、自分で努力することも必要だと思うかもしれません。そうなると、自分のやった功績だけが見えてきて、阿弥陀さまの姿を見なくなっていく。津村先生は、「これが私の姿なのだ」と仰いました。さらに、津守先生は親鸞聖人の「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」〔『歎異抄』後序より〕のお言葉を引用され、親鸞聖人と同じく、阿弥陀さまの救いの船は、私たち一人ひとりのための船だという見方ができることを示されました。

後半では、お笑いの北野たけし(ビートたけし)さんとお母さんのあるエピソードをお話されました。お母さんは子供たちに貧乏生活から脱出させるため、良い教育を施されたといいます。良い大学に入ることで良い会社に就職1でき、高額な給料がもらえるからです。しかし、たけしさんは有名私立大学に合格したものの、大学在学中にお笑い芸人になると大学を辞めてしまいます。お母さんは「なぜ貧乏な方へ行ってしまうのか」と嘆かれたそうですが、お笑いブーム到来でたけしさんにスポットが当たり、その後は役者や映画監督などどんどん開花していきます。そんなたけしさんに対して、お母さんはたけしさん名義の預金通帳を作り、万が一のために備えてお金を貯めていたのです。そして、当の本人は亡くなるまで質素な生活を貫かれました。そのお母さんの通夜の際、「どんなお母さんでしたか?」というインタビューに対し、たけしさんは「おいらの知っている母ちゃんは、いつも泣いている、働いている母ちゃんでした」とその場で泣き崩れたのでした。心配をかけ続けたこの私のためにたくさんの愛情があったことに気づかれたのです。

津守先生は、阿弥陀さまも同じであり、この私一人のために救いというものを説いてくださり、阿弥陀さまのご苦労があったのだと強調されました。そして、お釈迦さまのお経1文字1文字が私を救うための説法であったことを、この涅槃会の行事を通して感謝したいところです。

2024(令和5)年2月 御命日法要について 2024年02月08日(木)08時00分

私たちのちかい 一、自分の殻に閉じこもることなく
穏やかな顔と優しい言葉を大切にします
微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように
一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
しなやかな心と振る舞いを心がけます
心安らかな仏さまのように
一、自分だけを大事にすることなく
人と喜びや悲しみを分かち合います
慈悲に満ちみちた仏さまのように
一、生かされていることに気づき
日々に精一杯つとめます
人びとの救いに尽くす仏さまのように


3年前に、京都で世界宗教者平和会議50周年記念式典が開催された。その様子を紹介する新聞記事には、シンポジウムの講演内容を示す見出しに「共感力生かす社会重要」「地球として危機感共有を」と「共感」「共有」という言葉が並んでいた。この言葉はよく見聞きし、人口に膾炙する。それは、共感、共有するこころが失われていっている時代だとも言える。今こそ、この言葉のこころを思い起こし、大事にしていかねばと思うことである。人間には、他人の感情を自分のもののように感ずる能力である共感が備わっており、他人の苦しみや悲しみを背負うことや、他人の喜びを自分のものとし、1人の世界の何倍もの喜びを得ることができるという。
しかし、人の喜びを自分のものとすることは簡単なことではない。「隣の家に蔵が建つと腹が立つ」「隣の芝生は青い」という言葉があるように、共に喜ぶということは難しい。仏典には、真の友とは互いによきことがあれば共に喜ぶ、とある。共に喜ぶ姿は美しく、崇高でさえある。仏教は一体感を説く教えである。相手を受け入れ、また、相手の中に自己を見出していく生き方と言っていいのであろう。
人間は 1 人で生きているのではない。私そのものも他によって私たらしめられており、私自身が他を他たらしめている。そこに気付く中に、人の悲しみを悲しみ、喜びを喜ぶというこころが起こり、その先に平和な社会の構築があるのではないだろうか。

「2024(令和6)年2月1日(木) 本願寺新報『赤光白光』より」


2月御命日法要
○ 日時 2月13日(火)16時〜
○ 場所 礼拝堂
○ 勤行 正信念仏偈
○ 法話 正親一宣 師(浄土真宗本願寺派布教使)

2024(令和6)年2月 今月の聖語・言葉について 2024年02月01日(木)08時00分

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今月の聖語 ・・・ 正門聖語板
今月の言葉 ・・・ 教室掲示今月の聖語

【今月の聖語】
善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや
『歎異抄』

親鸞聖人が示された有名なお言葉です。日本史や倫理の教科書に示され、かつてセンター試験(現共通テスト)にも出題されたことがあります。「善人でさえ往生できる。ましてや悪人ならなおさらだ」という意味です。
往生というのは、仏の悟りの世界である浄土に生まれるということです。善い行いを積み重ねることで悟りに向かうというのが一般の道理です。ところが、善人よりも悪人こそが往生すなわち悟りに向かうことができるというのは、どういうことでしょうか。
ここでの悪人とは、道徳的に悪いということではなく、阿弥陀仏の願いを聞き、自らの罪悪を深く悲しむ人のことです。また善人とは仏によらずとも、自らの善なる行いによってこそ、悟りに向かえると信じている人のことです。つまり、ここでの悪人とは、道徳的な善悪を超えて、自らが愚かな人間であることを悲しみながらも、そのような存在を対象に「必ず救う」と誓われた阿弥陀仏のお心を慶ぶ人のことをいうのです。

【今月の言葉】
あいつはキライ これはダメ あいつは困る
こいつはいい と切り続ける 私はどうもハサミのようだ
平野 修

この言葉を聞いた金沢市のある少年の言葉を紹介させていただきます。
「僕もハサミだ。家にはお祖母ちゃんがいる、僕が学校から帰ってくると、宿題が終わるまで僕の机の横で見張っている。そんな時、こんなお祖母ちゃんはいないほうがいいな、と思う。でも、さつま芋の収穫を手伝った時、『よう手伝ってくれたね。これはお駄賃』と言って五百円を手に握らせてくれた時、お祖母ちゃん百年ぐらい生きて欲しいと思った。自分の都合でお祖母ちゃんが居ないほうがいい、居たほうがいいと思うのは僕もやっぱりハサミだね」 (川瀬智氏の法話より)
ついつい自分の都合を優先させ、回りを顧みない「ハサミ」になってしまうこの私に、気付かせて頂く言葉。

令和5年度 報恩講 2024年01月12日(金)12時24分

本日は10時より、本校講堂にて報恩講を勤修しました。報恩講は、親鸞聖人のご命日をご縁として営まれる宗教行事です。

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本願寺派布教使の渡辺雅俊先生より、親鸞聖人のご生涯に寄せながら、ご法話をいただきました。「南無阿弥陀仏」とは阿弥陀さまの声であり、私はどんなときでも一人ではなく、いつも阿弥陀さまがご一緒してくださっていることを示されました。そのたとえとして、阪神淡路大震災時に取り上げられたある家族のことなどを紹介されました。

2024(令和6)年1月 今月の聖語・言葉について 2024年01月01日(月)09時00分

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今月の聖語 ・・・ 正門聖語板
今月の言葉 ・・・ 教室掲示今月の聖語

【今月の聖語】
他人に教えるとおりに、自分でも行なえ。
自分をよくととのえた人こそ、他人をととのえるであろう。 『ダンマパダ』

日常生活の中で「こうした方がよい」、「これはやめたほうがよい」など、周囲の人に対してついつい口を出してしまうことはないでしょうか。人のことはよく見えますが、肝心の自分のことと言えば・・・意外と気づかないことが多いかも知れません。つい口が先行してしまいがちですが、言っている自分自身がしっかりと実行できいなければ言葉に説得力もありませんね。
??しかしながら、自分自身の言行を整えるということは非常に難しいことでもあると思います。釈尊も、この「今月の聖語」の続きで「自己は実に制し難い」と述べられています。そのような「制し難い自己」であることをしっかりと自覚した上で、日々の言動に厳しく向き合うことが大切なことだと思います。
新年を迎えました。改めて自分自身の言動を振り返りつつ、これからの日常生活でこの聖語を心に留め過ごしてもらえたらと思います。

【今月の言葉】
願はくは深く無常を念じて、いたづらに後悔を貽(のこ)すことなかれ。『教行信証』

いよいよ二〇二四年がスタートしました。新しい年をみなさんはどのような心境で迎えたでしょうか。「一年の計は元旦にあり」という言葉があるように、勉強のこと、クラブ活動のことなど、昨年の反省を踏まえ、新たな目標に向けて気持ちを引き締めていることだと思います。
今月の言葉に述べられているように、仏教では「無常」を説きます。「無常」とは仏教で中心となる教えの一つで、すべては移り変わっていくことを意味します。私たちは後戻りができない、最初で最後の貴重な時間を日々過ごしています。もっと勉強しておけば・・・、もっと部活の練習を真面目にしておけば・・・等の後悔を残すことなく、今年も自分の目標に向けて精一杯コツコツと積み上げていきましょう。
何事も節目が大切です。気持ちを新たに二〇二四年も精進していきましょう。

2022(令和5)年12月 御命日法要について 2023年12月12日(火)08時00分

私たちのちかい 一、自分の殻に閉じこもることなく
穏やかな顔と優しい言葉を大切にします
微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように
一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
しなやかな心と振る舞いを心がけます
心安らかな仏さまのように
一、自分だけを大事にすることなく
人と喜びや悲しみを分かち合います
慈悲に満ちみちた仏さまのように
一、生かされていることに気づき
日々に精一杯つとめます
人びとの救いに尽くす仏さまのように


少し気が早いが、来年の NHK 大河ドラマは女優の吉高由里子さんが主演を務める「光る君へ」。『源氏物語』を書いた紫式部(まひろ)を主人公に、およそ 1000 年前の、摂関政治の全盛期である平安時代中期の京都が舞台となる。摂関政治の最高権力者としてテストにも出る藤原道長も、?運命のひと?としてまひろの幼少期から登場する。この道長の栄耀栄華がを象徴する歌が、「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」(=この世は自分のためにあるようなものだ。満月のように何も足りないものはない)。しかし、わずか 50 年後には摂関政治が衰退しはじめ、院政、平家・源氏の武士の時代へと移り変わっていく。まさに諸行無常である。月を詠(よ)んだ歌は多くあるが、み教えを聞く者としては法然聖人の「月影のいたらぬ里はなけれども眺むる人の心にぞすむ」を味わいたい。月の光はすべてのものを照らし、くまなく降り注いでいるけれども、月を眺める人以外にはその月の美しさはわからない。この月の光と同じように、阿弥陀仏のはたらきは、すべての人びとに平等に注がれているけれども、素直に受け容れ、お念仏する人こそ、お救いにあずかるのである。時間に追われる生活の中で、ゆっくりと?月?を眺めたのはいつだろう…。この人生を空
むなしいものにしないためにも、自己中心的な心ではなく、心を落ち着け、素直な気持ちで眺めたいものだ。

「2023(令和 5)年11月20日(月) 本願寺新報『赤光白光』より」

12月御命日法要
○ 日時 12月12日(火)16時00分〜
○ 場所 礼拝堂(北校舎4F)
○ 勤行 正信念仏偈
○ 法話 三ケ本 義唯 師(浄土真宗本願寺派布教使)

2023(令和5)年12月 今月の聖語・言葉について 2023年12月01日(金)08時00分

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今月の聖語 ・・・ 正門聖語板
今月の言葉 ・・・ 教室掲示今月の聖語

【今月の聖語】
一丈の堀を越えんと思わん人は、一丈五尺を越えんと励むべし。
『勅修御伝(ちょくしゅごでん)』

今月の聖語は、浄土宗の開祖である法然聖人のお言葉です。『勅修御伝』という法然聖人の絵伝の中にあり、「一丈(約3メートル)の堀を乗り越えようと思う人は、その1.5倍努力しなければ、確実に飛び越えることはできない」ということです。「目標は高く持つ」とはよく言われますが、最初からあまりに高い目標を設定すると、途中でしんどくなり、かえって目標達成が困難になる場合が多いです。勉強やクラブ活動においても、目標が高すぎると、自分が取り組んできたことに対して、目標に近づいたという実感も得られにくいでしょう。目標設定する上では、現在の自分の状況や能力を把握し、目標をどこに持っていくかを考える必要があります。
みなさんが目標設定をする上で、どんな小さなことでも手を抜かず、前向きに取り組み、つねに最善を尽くすこと。そうした努力を続けていくことで、さらに上の目標に達することもできるのではないでしょうか。今年もあとわずかとなり、すでに来年に向けて大きな目標を掲げている人もいるでしょう。今月の聖語にならい、その目標に向かって努力を惜しまず、取り組んでみてください。


【今月の言葉】
人生はやり直すことはできないが 見直すことはできる 金子大榮(だいえい)

今月は金子大榮先生(真宗大谷派の僧侶)のお言葉ですが、私たちの人生は一度かぎりのものであり、二度の人生はなく、一度通ってきた人生という道を、なかなか変えられるものではありません。学校生活においては、テストが良い例でしょう。朝テストをはじめ、定期考査を受けた後にやりなおすことはできません。しかし、答案が返ってきて、どこが間違っていたのか、どこができていなかったのかを確認し、そこを復習することはできます。金子先生が言われるように、見直すことができるのです。見直すことによって、今の人生(または勉強)に生かすことができ、また良い方向に変えることも可能です。今月の言葉を通して、みなさんもいろいろなことを見直してみましょう。

合掌

2022(令和5)年11月 御命日法要について 2023年11月14日(火)08時00分

私たちのちかい 一、自分の殻に閉じこもることなく
穏やかな顔と優しい言葉を大切にします
微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように
一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
しなやかな心と振る舞いを心がけます
心安らかな仏さまのように
一、自分だけを大事にすることなく
人と喜びや悲しみを分かち合います
慈悲に満ちみちた仏さまのように
一、生かされていることに気づき
日々に精一杯つとめます
人びとの救いに尽くす仏さまのように

朝露(つゆ)を見かける時期となった。早朝の木の葉の上にも、地面にも。そういう露も太陽が昇る頃になると、はかなく消えていく。経典には、無常を示す喩(たと)えとして、六喩(ゆ)とか十喩が出てくるが、夢とか幻、泡、影、電光(稲妻)などと並んでその中に露が入っている。蓮如上人は「御文章」で「それおもんみれば、人間はただ電光朝露(ちょうろ)の夢幻(ゆめまぼろし)のあひだのたのしみぞかし」と述べられる。喩えで味わうと、無常ということがいよいよこの身に感じられる。

真宗学者の梅原眞隆氏(1885〜1966)は「白露のこぼれて秋は悲しけれ弥陀のそでにすがりてぞ生いく」と詠(うた)われる。別れの悲しみの中で詠まれた歌と推察される。それは、親子の別れであろうか。あるいは親しい友との別離であったのか。いずれにしても、下の句では、その悲しみを超えて生きていかれる姿が偲ばれる。それは、「すがりてぞ生く」の言葉のように、阿弥陀如来の「まかせよ、必ず救う」という声におまかせしている姿でもある。

幼い子を亡くされた通夜のことだった。おつとめの後、深い悲しみの若い両親に「仏さまの側から言いますと、亡くなるということは、阿弥陀さまの世界に生まれるということです。そして私たちは亡くなられたお子さんに導かれていくのです」と話した。その後、
両親は控室に来られ「子どもはお浄土に生まれたんですね」とくり返し、涙された。無常の世を阿弥陀さまに「すがりてぞ生く」。

「2023(令和5)年11月1日(水曜日)本願寺新報『赤光白光』より」


11月 御命日法要
○ 日時 11月14日(火)16時00分〜
○ 場所 礼拝堂(北校舎4F)
○ 勤行 正信念仏偈
○ 法話 野田 茜 師(浄土真宗本願寺派布教使)

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