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  兵庫県における商業教育の歩み             神戸商業講習所の誕生とその背景
 
                                                            県立神戸商業高等学校
                                                            第44代校長   西村直己
   はじめに
   1878(明治 11)年に福澤諭吉氏の尽力により県直轄の「神戸商業講習所(現、県立神戸
 商業高等学校)
             」が創設され、兵庫県の商業教育が開始された。それから約 145 年、時の移
 り変わりとともに歩んだ、県立神戸商業高等学校のその誕生を振り返る。
 
 
 1 神戸開港の背景
   1853(嘉永6)年のペリー来航は、鎖国日本を開国させる契機となるが、資本主義的に発
 展を遂げた欧米の経済と、日本の経済とはあまりにも大きな隔たりがあった。日本経済がそ
 の自主性を失わず、欧米先進国からの経済的影響に堪ええるためには、自らも資本主義化し、
 経済の近代化を促進する必要があった。
   しかし、資金の不足、知識や技術の貧困、社会的基盤の未成熟、加えて、1858(安政5)
 年に江戸幕府と締結された日米修好通商条約(函館・新潟・神奈川・兵庫・長崎の5港開港
 と江戸・大阪の2市開市が決定)、さらには、英・仏・露・蘭と締結したいわゆる安政五か
 国条約により、関税自主権の拘束や居留地貿易がその後の日本経済発展の足かせとなった。
   居留地貿易は、在日外国人を特定の地域に居住させ、治外法権を認めたことによって、法
 的に外国商人の利益を擁護する形となった。1899(明治 32)年に不平等条約が改正され、
 居留地制度は消滅するが、すでに培われていた外国商人の地盤は抜き難いものがあった。
   幕府は、日米修好通商条約交渉の過程で大阪ではなく、堺か兵庫のいずれかの開市を提案
 した。しかし、タウンゼント・ハリス氏(我が国最初の米国総領事)に詰め寄られ、やむな
 く大阪開市を承諾した。さらにハリス氏は、兵庫の開港も迫り、幕府側は、兵庫と大阪は近
 く、兵庫開港は大阪の開市開港を行うのと同様だとして断るが、堺を開くと、皇室にゆかり
 の多い大和地方があることから諸問題が起こる可能性を考え、最終的に兵庫の開港を承諾
 した。
   兵庫は古い歴史を持つ港町であり、平安時代末には平清盛により大改修を行い、名を兵庫
                                                     の津とした。室町時代には対明貿易
                                                     の拠点として繁栄し、江戸時代には、
                                                     大阪の商業発展に伴い、大阪の外港
                                                     として重要な役割を果たした。特に
                                                     江戸中期以降、西廻り海運(北前船)
                                                     の発展や西摂地方における酒造業を
                                                     中心とする産業的発展によって日本
                                                     有数の港湾都市に成長していた。こ
                                                     れらを背景に兵庫の開港を迫ったと
                                                     考えられる。
          開港当時の神戸 県商 60 年史より              兵庫港居留地の範囲は生田川から
 宇治川間、必要に応じて六甲山麓に拡張すると規定された。条約上の開港場は兵庫であるが
 神戸とすることも確認されている。兵庫は住居が密集しており、開港場施設の建設が困難な
 地であった。英国などが付近の海域を測量した結果、英国公使パークスが兵庫港より神戸の
 入り江の方が港に適していると判断し、最終的に神戸・二ツ茶屋・走水の三村(明治元年に
 は合併し神戸町となる)の地域が選定された。
   これらの地は、農業を主とした農村にすぎなかったが、神戸村には神戸浦とも呼ばれ廻船
 業・問屋もあり、勝海舟や坂本龍馬が関係した海軍操練所の跡地でもあった。以後、神戸は
 日本の主要貿易港としての地位を築いていく。
 
 
 2 明治初期における商業教育
 (1)近代商業教育の歴史的背景
   江戸幕府の時代には封建制の社会構造に基づいて、身分制があった。教育や文化の面にお
 いても、武士と庶民とで、それぞれに独自の質と形式を形成していた。武士層は、儒教思想
 に立脚して支配者に必要とされる儒学の学識と教養(徳)を備えるとの考えがあり、藩校を
 つくりそれらを教えた。庶民の子供たちには、その生活に必要な限りでの、読み・書きの初
 歩を中心に、日常必須の算用などをも併せて教授する寺子屋といわれる私設の学校があっ
 た。
   身分制の下では、商人が社会的に軽く見られる傾向があった。しかし、有能堅実な商人は、
 商人道を良くわきまえ、家風・店風を定めてこれを守りながらその立場を着実に築いた。幕
 府時代には、商業経営は慣習によって成り立ち、商人には特別な知識的修養がなくとも、そ
 の地位を占めることができた。したがって、特別な教育機関も必要なく、商人で好学の者は
 むしろ憚られた。
   商人への教育は、徒弟の関係で事が足りるとされ、商人になるには幼少の頃から商家に入
 って徒弟として修業を積むしかなかった。商売に必要な算術や習字などは、商家に於いて夜
 間練習することが常で、丁稚小僧の中には、無学の者も稀ではなかった。しかしながら、維
 新により教育の思想も海外から入り、商業活動の変化もあって、一部の識者の間には、商業
 の発展には学識ある人材の育成が必要と痛感し、商業教育の実施を求める機運が高まった。
 
 
 (2)教育制度にみられる商業教育
   明治維新より廃藩置県に至るまでは、政府も教育制度の確立を期する間もなく、教育に関
 する施設などは、旧幕府の諸制度を踏襲していた。1869(明治2)年 2 月府県への施政方
 策を示した「府県施政順序」において「小学校ヲ設ル事」を指示し、従来の寺子屋の中には
 小学校に代わったところもあったが、小学校の新設普及にともなって、寺子屋は衰退してい
 く。明治初期には神戸には5つの寺子屋があったとされる。
   1871(明治4)年7月には、文部省が設立された。翌 1872(明治5)年には「学制」が
 頒布され、小学、中学、大学の3段階に分け、農業学校、商業学校、工業学校は中学の一種
 とみなしている。学制第 36 章に「商業ハ中学校ノ一種デ商用ニ係ルコトヲ教フ海内繁栄ノ
 地ニ就テ数ケ所ヲ設ク」として、商業学校の目的と設立意図を僅かながら示した。1873(
 明治6)年には「学制追加」があった。しかし、これは学制にもれた専門学校について規定
 するためで、「外国人教師によって教授する高尚なる学校」を広く専門学校とし、入学資格
 を小学校卒業者で、外国語学校下等の教材を履修した者とした。
   明治の初年は、産業、経済、政治などの諸制度や文化、学問を欧米の在り様を取り入れよ
 うとしていた。そのため外国語は極めて重要で、
                                           「学制」頒布時には、外国語学校、外国語
 教授を下位段階の課程とした専門学
 校が存在していた。
   官立の東京外国語学校は、1873(明
 治6)年の設立で英、独、仏、露、清
 の外国語の授業を開設していた。これ
 らの外国語の修養は、貿易や通訳など
 の実用に役立たせるためであったと
 推察でき、後に設立される東京商法講
 習所や神戸商業講習所にも外国語の
 授業が取り入れられた。
   学制の追加では法学校、医学校、商        本校所蔵 開校当時の教科書「学問のすすめ」
 
 業学校などを専門学校とした。しかし、これらの規定により商業学校がすぐに設立されたわ
 けではなかった。もともと「学制」は明治初年の何もないところから取りあえず描いた設計
 図のようなものであり、当時の日本の実情には即応していなかった。また、明治政府の財政
 の逼迫もあるが、海外様式の商業教育を必要とするほど日本経済が進んでいなかったこと
 や、
   「商人には学問はいらぬ」という考え方が幕府時代から根強く、維新後も引き継がれて
 いた状況があった。
   1879(明治 12)年9月に政府は、学制が当時の国情には適していないのを見て、新たに
 教育令を発布する。学校は小学校、中学校、大学校、師範学校、専門学校及そその他各種の
 学校とした。しかし、中学校は高等な普通教育を為すところとし、商業学校を認めなかった。
 また、翌年 1880(明治 13)年 12 月には、改正教育令が発布された。学校には商業学校を
 加えるも、商業学校は単に「商賣ノ學業ヲ授クル所」とし、
                                                     「各人皆之ヲ設置スルコトヲ得」
 としたに過ぎなかった。
 
 
 (3)商業関係機関の設立
   日本の近代商業教育の機関として発足したものには、1874(明治7)年4月に大蔵省銀行
 課に設置された銀行学局がある。しかし、これは銀行員育成という特殊な目的を持つもので
 あった。学校形式による組織的な商業専門教育機関としては、1875(明治8)年8月に当時
 の駐米公使であった森有禮氏や渋沢栄一氏によって設立された「東京商法講習所」(商法と
 は「あきないの方法」として用いている)が最初と考えられる。後の 1885(明治 18)年に
 文部省に移管され官立校となり、東京高等商業学校から東京商科大学となる。現在の一橋大
 学の前身である。
   森有禮氏は、米国に公使として在任中、欧米列強の国力を目の当たりにし、自国の後進性、
 ことに資本力の劣勢を痛感する。日本の将来のためには有為なる人材の育成が必要と考え、
 建白書をつくり、商業学校の設立を政府に訴えた。しかし、日本での実業教育とりわけ商業
 教育を軽視する現状では実現に至らなかった。そこで私費を投じて商法講習所を設立した。
 その設立趣旨は、開港場で貿易取引を独占的に支配していた外国人仲買にとって代わり、日
 本人がロンドンやパリなどと直接貿易を行う外国貿易従事者の養成に必要な商業教育を行
 うことであった。
   しかし、この商法講習所が模範にしたアメリカのビジネススクールは、本来下級事務員の
 養成を目的とするもので、商法講習所の設置目的である外国貿易従事者の養成とは矛盾が
 あった。後に、修正を行い、外国実践などに多くの時間を充てている。
   この東京商法講習所の発足は、日本各地において、商業教育の必要性を認識することとな
 り、1878(明治 11)年に神戸商業講習所、三菱商業学校が開設され、その後も大阪、横浜、
 新潟でそれぞれ商業学校が開設された。
   当時、日本の教育界への影響が大きかった福澤諭吉氏は、東京商法講習所設立を次のよう
 に述べ、商業教育の必要性を後押した。
 
 
   「
   (略) 日本の文明未だ進まずして何事も手後れと為りたる世の中なれば、獨商法の拙
 なるを咎むるの理なし。
                     ・・・維新以來百時皆進歩改正に勉め、文學を講ずる者あり藝術を
 學ぶ者あり。兵制を改革し工業をも興し、頗る見るべきもの多しと雖、今日に至るまで全日
 本國中に一所の商學校なきは何ぞや。國の一大闕典
 と云ふべし。凡そ西洋各國、商人あれば必亦商學校あ
 り。尚我武家の世に、武士あれば必亦劍術の道場ある
 が如し。劍を以て戰ふの時代には、劍術を学ばされ
 ば、戰場に向ふべからず。商賣を以て戰ふの時代に
 は、商法を研究せざれば、外國人と敵對すべからず。
 苟も商人として内外の別を知り、全國の商戰に眼を
 著くる者は、勉むる所なかるべからず。
                                   (略)」
                                         (『続福
                                                    本校所蔵     福澤諭吉編集「西洋事情」
 澤全集』第七巻 P419)
 
 
 3 神戸商業講習所の設立
 (1)設立の背景
   幕末から明治初期における状況は前述した。明治新政府になっても数年は日本各地で、旧
 幕藩体制がまだ残っていたと考えられる。しかし、神戸は開港によって、市街地に整備され、
 居留地には多くの在留外国人が住居し、外国商社の数も増え、諸外国との貿易で活況を呈し
 ていた。また、1876(明治7)年3月には、大阪・神戸間に鉄道が開通された。
   貿易には、外国人の方が、海外に関する圧倒的な知識があり、取引に関しては、常に有利
 な立場となっていた。そのため神戸には、日本人商社の手で外商の使を脱して、直接海外
 と取引するいわゆる輸出入業者として自立する強い機運があった。そのためには、人材を養
 成する商業学校が必要であったと考えられる。当時の様子は、次の甲斐織衛氏(初代神戸商
 業講習所校長)の演説から窺える。甲斐氏は、新経済体制のもとで国力の充実を図るには、
 商業は重要な役割を担うものであり、外国の商人に対抗できる人材の育成が急務である。さ
 らに、貿易港を持つ神戸が商業教育の魁となるべきとしている。
 
 
   1879(明治 12)年5月の甲斐織衛氏の兵庫県会での演説(抄)。
 「凡ソ商賣ハ生産ニ須臾モ欠ク可ラザル肝要事ニシテ、商賣ナケレバ生産起ル可ラズ。生産
 起ラザレバ國富ム可キノ理ナシ。(中略)我商賣ハ外國ノ事情風俗ニ慣レズ。為メニ其貿易
 ハ常ニ外人ニ利セラレテ、今日ニ至ルマデ未ダ其輪羸ヲ争フ可ラザルモノノ如シ。我國ニ商
 売上ノ教育乏シキノ然ラシムル處ナリ。
                                   (中略)當県下神戸ノ如キハ我國開港場ノ第二ニ位
 シ、内外ノ商賣最モ繁劇ナル場處ナレバ、商業教育ノ如キハ必ズ起サザル可ラザル處ニシテ、
 (中略)去ル明治十一年第一月廿六ヲ以テ、神戸三ノ宮ニ於テ始テ商業講習所ヲ設立セラレ
 タリ。是レ我日本帝國ニ於テ開設セル第二ノ商業學校ナリ。然ルニ前ニ陳セシ如ク古來我國
 ニ商業教育ナルモノナシ。
                       (中略)商業學校ノ設立次第ニ盛ナルニ従ヒ、商賣世界ノ面目ヲ
 一新改良スルニ至ラバ、内ニハ商業生産愈隆盛ニ赴キ、外ニハ外商ト同等ノ権利ヲ保ニ至リ、
 茲ニ始メテ我國獨立ノ地位ヲ得可キナリ。然ラバ則チ商業學校の開設ハ啻ニ我國商業ノ隆
 盛ヲ稗補スルノミナラズ、我國獨立ニ関スル一大要件ナレバ、將來愈此規模ヲ大ニシ縣下市
 街ニ此教ヲ擴張セシメンコトヲ希望スルナリ。」
 
 
 (2)設立の経緯
   1877(明治 10)年、兵庫県権令(後に県令)森岡昌純氏(前年9月に就任)は、神戸が
 貿易港を控える商業の中心地であり、商業の興隆をはかるためには、商業学校が必要と唱え、
 県勧業課長牛場卓造氏(慶應義塾出身)に命じて商業学校の創設を計画した。森岡氏の命で、
 牛場氏が上京して福澤諭吉氏と会談し、大いにその賛同を得た。
   県と慶應義塾との間に「此度兵庫県神戸に於て設くべき商業学校は、慶應義塾にて之を引
 受け其責に任すべき約束をなしたり、依て其条約を定むる事左の如し」ではじまる八か条の
 約束書を取交した。そして、慶應義塾が教師その他一切を引受けることになり、校費の二百
 円は県税より支出された。翌 1878(明治 11)年1月に神戸商業講習所が設立される。
   また、福澤諭吉氏の推薦で、慶應義塾出身で商学に詳しい甲斐織衛氏(27 歳)を主任と
 し、飯田平作氏(27 歳)
                      、藤井清氏(26 歳)の3名が慶應義塾より派遣された。福澤諭吉氏
 は赴任する甲斐織衛氏に「昔の寺子屋のような教授をしろ」と忠告したという。これが洋式
 教育の東京商法講習所との違いになったと推察する。
 
 
 
 
                JR 元町駅
                                                      創立当時の校舎想像図
     創立当時の場所(現在の JR 元町駅西口北
 
   神戸に着くと3人は諸種の調査を進め、時代に適合する郷土色の濃い、しかも直ちに役立
 つ商業教育を実施するため、校則その他の設立準備に
 とりかかった。校舎も当時の神戸区北長狭通りの関戸
 由義氏(神戸の開拓者)所有の木造2階建ての洋館を
 無償で借受け、学校の名称も「神戸商業講習所」とし
 1877(明治 10)年 12 月下旬には、県と種々の折衝協
 議を重ね 12 月 28 日付けで生徒募集1を開始した。1月
 26 日に開所式典を行った。
   入学資格は満 14 歳以上の者を原則としたが、16,7
                                                              明治 12 年の生徒募集2広告
 歳を最低として、20 歳前後の者が多数を占めていた。
 中には教師より年長の者もいた。修業年限は2か年とした。
   制服は無く、紺の木綿前垂に角帯姿であった。教
 師は和服に袴、または前垂を着用して教壇に立っ
 た。これらは、当時の慶應義塾の塾生の間に一般に
 行われていた服装で、銀座の塾生のシンボルであ
 ったのを採入れたと考えられる。
   商業講習所の設立を知った人の中から、夜間に
 商業講習を受けたいという希望者があり、3月に
 なって講習所内に夜学部を開設した。3月3日付
 けで夜学規則を発表し 30 名程度の受講者を募集3
                                                       設立当時の職員 〇印 甲斐織衛氏
 た。受講希望者の身分、年齢には制限をつけず、自
 由に入学を許可し、日曜祭日以外は毎日夜7時より8時半まで授業をした。7月には、開校
 以来の規則の一部を改正し、各種の不便欠点を補った。入学者を小学校卒業者と限定せず、
 自営で忙しい者に対しては、全教科を学ばなくても、1課でも2課でも学べた。
 
 
 (3)教育内容
   教則(開校時)
   第1科
     地理学 理学 機械学 電信機大意 経済論
     銀行論 天然物産書 海陸運輸規則 商法律
     諸製造ノコト 商業沿革論      他
   第2科
                                                    本校所蔵 開校当時の教科書「寳氏経済学」
     商法必用算術 本式略式帳合法 折方封印仕方
     書状認方 諸手形式 約束書式 荷物運送状認方 その他総て商業に関すること
   第3科
     実地上の演習
 
 
   教則 1878(明治 11)年7月改正
   第1項 素読講義及び暗記
     地理学 経済学 商業要件録 銀行論、海陸運輸     規則、天然物産書 他
   第2項 算術
     加減剰余、比例、利息算、商業用早算、重利及び年賦金法 他
   第3項 習字作文及び書取
     平仮名、片仮名、数字、度量衡名称、貿易輸出入物名、商人往復書状、諸証書式
     約束諸書式、為替手形類、荷物送状類、諸願届書類 他
   第4項 帳合法
     兵庫港仕来り諸帳合、略式帳合法、本式帳合法、銀行簿記精法 他
   第5項 実地演習
   「第五項ハ則チ生徒ヲシテ既ニ學ビ得タルモノヲ實地ニ商賣取引ニ擬シ活用セシム故ニ
 此演習ヲナサシムルニハ講習所内ヲ數局ニ分チ即チ郵便電信運送問屋及銀行等夫々一局ニ
 一事ヲ宛テ生徒ヲシテ各局ニ分置シ商賣ヲ營マシム且假ニ紙幣ヲ造テ之ヲ授ケ賣買ノ際ニ
 用ヒシメ恰モ講習所内ヲ種々ノ商店ニ擬シ互ニ相集リテ商賣取引ヲナサシムルノ趣向ナリ
 右第一項ヨリ第四項迄ハ唯學ブ可キ科目ヲ掲ゲタル
 ノミニシテ強テ此順序ヲ逐テ教授スルニ非ズ第一項
 ヨリ第四項迄ハ之ヲ同時ニ教授スルモノトス    第五
 項ニ至テハ前項ヲ卒リタル者ニアラザレバ之ニ移ル
 ヲ得ズ(略)時宜ニ依テハ英語會話ノ教授ヲモ設クル
 コトアル可シ」
   創立当初の教則にも、改正されたものにも実地演習
 とあるが、この教則の前書きには、次のように書かれ
                                                           開校当時の授業の様子
 ており実地演習が相当重要に取扱われていたことが分か
 る。
   「當講習所ハ元ト商人ノ子弟ヲ教授スル爲ニ設立セシモノナレバ、其教育方法ノ如キモ
 専ラ日常商賣上ノ取引ニ使用ス可キ事ヲ教ヘ、以テ今日學ブ處ノ業ト家ニ歸テ營ム處ノ商
 賣トノ間ニ、成丈ケ縁ノ近クシテ、彼ノ呉服屋ノ丁稚ニヒマラヤ山ノ高キヲ教へ、問屋ノ小
 童ニ體操ヲ學バシムルガ如キ迂遠ナル事ハ暫ク擱キ、一日習ヘバ一日丈ケノ用ヲナシ、一ケ
 月學ベバ一ケ月丈ケノ用ヲ辨ジ得ルガ如キ教育ヲ施サントスルノ趣向ナリ。凡ソ實地ト學
 問ト互ニ馳背隔絶スル程、稽古人ノ爲ニ不利ナルモノハナシ。
                                                       (略)」
 
 
   この前書きを見ると、東京商法講習所との相違がある。東京商法講習所は貿易従事者養成
 に重点を置いた洋式教育であったの対し、当初の神戸商業講習所の教育は、
                                                                   「一日習ヘバ一
 日丈ケノ用ヲナシ」とあるように実学を中心とした庶民的な教育を行なっている。そのこと
 は、講習所の校長を「支配人」
                           、生徒を「稽古人」
                                           、事務室を「帳場」
                                                           、分校を「支店」と呼
 んだことにも窺える。
   1882(明治 15)年7月の教則改正では、外国語として「第二年前期ヨリ外国語ヲ授ク、
 其法タルヤ欧米ニ向テ商売ヲナサムルトスル者ハ英語ヲ以テシ、東洋ニ向テ商売ヲナサン
 トスル者ニハ支那語ヲ以テス、
                           (略)」とされ英語や中国語を教授して外国との商売(貿易)
 に対応している。また、1883(明治 16)年には、大阪商業講習所と横浜商法学校との3校
 間で穀物、いわし油、茶などについて遠隔地間取引の模擬実践など先進的な取組も行った。
   また、甲斐織衛氏は簿記の指導についても、特色というべき方針を次のように述べている。
 
 
 「商業ヲ營ムニ當リ、此法(和式帳合法也)ヲ用ヒテ聊カ差引勘定ノ差支ナク、今日ニ至ル
 迄行ハレタルコトナレバ、其ノ法ノ便不便ハ姑ク擱キ、其仕組ノ正シク間違ノスクナキハ明
 ラカニ證スベシ。然ルニ近日西洋ノ事物盛ニ行ハルヽニ際シテ、簿記モ亦西洋ノ風ニ傚ヒ、
 之ヲ傚フノ甚シキニ至リテハ日本ノ舊帳ヲ皮相シテ、棄テヽ之ヲ顧ルナキニ至ラントス。實
 ニ惜ムベキノコトヽ謂フベシ。當講習所ハ夙ニ之ニ注意シテ、商人ノ子弟ヲ導クニ頓ニ西洋
 ノ簿記ヲ教ヘズ、特ニ和式帳合法教授ノ法ヲ設ケ、西洋記簿ノ精神ヲ取テ日本舊帳ノ體裁ニ
 調和シ、次第ニ初歩ノ生徒ヲ導テ漸ク佳境ニ入ルニ従テ、純粹ノ洋法ニ移ラントスルノ主意
 ナリ。
     」
   福澤諭吉氏は、西洋式簿記を翻訳した「帳合之法」を「余が著譯書中最も面倒にして最も
 筆を労したるものは帳合之法なり、
                               (略)、大福帳の法に優ること萬々なりと深く自ら信じ、
 直に翻訳に着手し(略)」
                       (『福澤全集』第1巻 P64)とあるように西洋式簿記にその価値を
 見出すも、弟子の甲斐氏はまず和式からとしたのは面白く、甲斐氏の教育信念が窺える。
   この様にして、教員の人選や教育内容が順次整備され、将来を見通し、時代に即応した商
 業教育が開始された。以後、約 145 年続く県立神戸商業高等学校の始まりである。
 
 
 
 
                本校所蔵 帳合之法(明治6年)
 
 
 
 おわりに
   1884(明治 17)年1月に政府は新設学校の基礎を固め、時代の要求に適応させるため、
 文部省達第1号をもって「商業学校通則」を発布した。この通則で学科目、授業日数、教員
 資格を定め、商業学校を第 1 種、第 2 種とした。第1種は年齢 13 歳以上の者を入学させ、
 修業年限2年、主として自ら商業を経営する者の養成することを目的とし、第2種は 16 歳
 以上、修業年限3年、主として商業を処理する者の養成を主眼とした。
   神戸商業講習所は、1886(明治 19)年に第1種商業学校となり、校名を県立神戸商業学
 校とした。その年には、紙幣兌換の開始とともに、産業界が活発な発展の時代に入っていく
 が、本県の商業学校の飛躍は、1907(明治 40)年以降のことである。
   明治初期に設立された商業学校は、いわゆる世論により設立されたものでもなく、極めて
 僅かな人達が、現状から将来を見通して設立したものである。また、学制など規程を定めて
 はいるが、それによらずに独自の内容による教育を行っている。しかしながら、極めて実質
 的な学習を行い、直ちに実務に役立つ実習を中心とした教育であったことは、当時の世相を
 反映しているものの、今日の本校に於ける商業教育の原点といえる。
 
 
 参考文献一覧
 
 
 [官・公関係]
 (1)文部省「産業教育八十年史」1965 年 P6、P68-69
 (2)商業教育八十周年記念事業委員会「商業教育八十周年記念誌」1965 年、P3-12
 (3)全国商業学校長協会「商業教育百年史」上 1985 年、P6-11、P13-19
 (4)産業教育 120 年記念会「産業教育百二十年記念会史」2005 年、P1-3
 (5)兵庫県「兵庫県百年史」1967 年、P39-43、P53-58、P64-66、P78、P88
 (6)兵庫県「兵庫県史       第5巻」1980 年   P7、P16-18、P20、P209-213、229-230、
                                                P245-248、P345-360、P454-460
 (7)兵庫県教育史編集委員会「兵庫県教育史」1999 年、P323、P358
 (8)兵庫県産業教育七十年史編纂委員会「兵庫県産業教育七十年史」1955 年、P303-334
 (9)神戸市「新修神戸市史 産業経済編」1990 年        P2-10
 (10)神戸市「新修神戸市史 歴史編」1994 年 P20-29、P216-220
 [学校関係]
 (1)慶應義塾「慶應義塾百年史」上巻 1985 年、P297-298、468-477、573-575
 (2)神戸女子大学史学研究室「須磨の歴史」神戸新聞総合出版センター1990 年、
                                             P203-211
 (3)大阪市立天王寺商業高等学校編「天商百年史」2011 年、P33、P40
 (4)Y 校百年史編集委員会「Y 校百年史」1982 年、P31
 (5)兵庫県立第一神戸商業学校「60 年史」1938 年
 (6)兵庫県立星陵高等学校「八十周年記念誌」1958 年
 (7)兵庫県立神戸商業高等学校編「歴程 90 年」1968 年
 (8)兵庫県立神戸商業高等学校編「百年史」1978 年
 (9)兵庫県立神戸商業高等学校編「航跡」1998 年
 (10)兵庫県立神戸商業高等学校編「130 周年記念誌 歴程」2007 年
 
 
 [個人 その他]
 (1)風巻義孝「商大論集」第 49 巻第2号神戸商科大学(現県立大学)
                                                                 、1997 年、P90-91、
                                                                            P94
 (2)財家繁幸、阿瀬幹宜「兵庫県商業教育小史」1978 年、P3,P9,
 (3)榎本信義「神戸商業講習所とその時代」2002 年、P5
 (4)雲英道夫「商業教育を論ず」白桃書房、1989 年、P118-119
 (5)淡水編集委員会「淡水 55 号」淡水会(兵庫県立大学)
                                                       、2009 年、P11-13
 (6)時事新報社「福澤全集第1巻」1925 年   P64-65
 (7)岩波書店「続福澤全集第7巻」1934 年   P417-419