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豊田工業高等専門学校のWiki
豊田工業高等専門学校 ナビランク(4337位/5677校中)
基本情報
学校名:国立高専機構豊田高専
略称:豊田高専
英称:National Institute of Technology Toyota College
(2014年度まではToyota National College of Technology)
英略称:NITTC(TNCT)
設置者:国
種別:国工
設立年:1963
学科:機械工学科
電気・電子システム工学科
情報工学科
環境都市工学科
建築学科
専攻科:電子機械工学専攻
建設工学専攻
情報科学専攻
郵便番号:471-8525
所在地:愛知県
緯度度:35緯度分:6緯度秒:13
経度度:137経度分:8経度秒:53.46
ウェブサイト:https://www.toyota-ct.ac.jp/
ロゴ:豊田高専校章.png
'''独立行政法人国立高等専門学校機構豊田工業高等専門学校'''は、愛知県豊田市にある日本の国立高等専門学校である。1963年に設置された。略称は'''豊田高専'''。

概要


・ 豊田高専は、昭和38年4月に愛知県豊田市に創立された国立高専のひとつ。平成16年4月より法改正により独立行政法人化した文部科学省 独立行政法人国立高等専門学校機構法の概要
。5年制でさらにその上に2年間の専攻科を持つ。各学年約200名と専攻科約50名で構成されており、全校で1,000人以上が在学している。

・ 全国の高専の中でも沼津、明石等と並びトップレベルの入試難易度を誇っている。しかし、自由な校風から入学後に学力レベルを落としてしまう学生も多いため、それがJABEE導入を強行するきっかけとなった。毎年全体で50〜60名程度留年している。

・ NHKロボコンで毎回上位に入賞しているほか、最近ではロボカップ世界大会などにも出場している。2007年のロボカップでは、アメリカのMIT、ハーバード大学の共同チームに大差で勝利を収めた。また、2010,11年は世界大会ベスト4,2012年は世界大会3位を記録した。

・ 理数系に強く、卓越して優秀な成績を収めた団体に対する「数検」グランプリの常連校である。数学では、他の高専と同様に3年生までで微分方程式やラプラス変換・フーリエ変換を学び終え、繰り返し応用を学ぶ。

・ 学校指定の制服はなく、服装に規定はない。3年生以上であれば学校が設定する交通安全合宿ならびに各期毎の自動車等使用許可説明会、安全運転講習を受講し、さらに授業料免除申請をしない場合に限り、自動車やバイクによる登校も許可されている。

・ 高い就職率を誇り、毎年多くの企業から求人がくる電気・電子システム工学科の就職実績
情報工学科の就職実績
環境都市工学科の就職実績
建築学科の就職実績
専攻科の就職実績
。特に愛知県下の好調な景気動向により、本校への求人は質、量ともに安定しているといえる。編入学制度を利用することにより卒業後に大学3年へ編入学することも可能であり、ほぼ半数の学生は国立大学の工学部または専攻科へ進学してゆく電気・電子システム工学科の進学実績
情報工学科の進学実績
環境都市工学科の進学実績
建築学科の進学実績
専攻科の進学実績


・ 自主自律の精神を重視し、学業・部活動・寮生会・学生会などの活動が盛んである。また、寮祭やこうよう祭など様々な年中行事が開催される。

前史

・ 1962年(昭和37年)
  7月18日 - 衆議院議員、浦野幸男を会長とする国立豊田高専設置協力会が発足。
・ 1963年(昭和38年)
  1月11日 - 愛知県豊田市に豊田工業高等専門学校の設置が決定。
  1月16日 - 文部省大学学術局長、小林を会長とする豊田工業高等専門学校設置準備会を名古屋大学本部に設置(名古屋大学は豊田高専の当面の主要教職員人事等を斡旋協力する世話大学)。
  1月28日 - 教員選考委員・入学候補者選考委員を委嘱。
  2月16日、17日 - 昭和38年度入学者選抜学力検査を、豊田・豊橋・一宮・名古屋計4会場で実施。志願者倍率は17.5。

須賀太郎校長時代

・ 1963年(昭和38年)
  4月1日 - 機械工学科、電気工学科及び建築学科を置く豊田工業高等専門学校が設置。名古屋大学教授理学博士須賀太郎が初代校長に任命。
  4月20日 - 開校式及び第1回入学式を豊田市トヨタ町トヨタ自動車工業株式会社トヨタ会館において挙行。同社本社工場内の施設を仮校舎とし、豊田市西町旧豊田市役所を仮学生寮として発足。入学許可者125名(機械43名、電気41名、建築41名)。船橋勝次を会長とする教育後援会結成。
  10月10日 - 学生会結成。
  10月16日 - 「創立の精神」を教官会議で決定。
  11月5日〜7日 - 学校祭を開催、5日には開校記念式典、6日体育祭、7日猿投山登山。
・ 1964年(昭和39年)
  2月12日 - 初の学生会役員選挙実施。
  3月 - 第1期工事(校舎、守衛室、車庫、学生寮)竣工。
  4月13日 - 仮校舎・仮学生寮から栄生町の新校舎・新学生寮に移転。
  4月22日 - 学生会各部活動開始。
  10月2日 - 学生寮委員会が発足。
  11月4〜7日 - 開校記念学校祭を開催。
  12月 - 第一回須賀杯駅伝競走を開催。
・ 1964年12月 - 陸上競技場整備工事竣工。
・ 1965年(昭和40年)
  1月25日 - インターアクトクラブ発足会を開催。
  2月1日 - 校歌委員会を設置。
  3月10日 - 入試預託金制度問題化(後述)。
  3月31日 - 第2期工事(校舎、機械実習工場、学生寮)、野球場整備工事竣工。
  4月1日 - 学生準則を施行。週当り授業数を38時間に削減。英語教育に外国人講師制度を実施。低学年寮に指導寮生制度を実施。
  4月12日 - スクールバス定期運転開始。
  6月1日 - 体育施設建設協力会を設置し、2500万円募金を開始。
  8月23日 - デトロイト交換学生来校。
  9月9日 - 台風23号接近のため臨時休業。
・ 1966年(昭和41年)
  3月31日 - 第3期工事(校舎、学生寮、体育館)竣工。
  4月 - 午前9時10分始業に変更。
  8月28〜30日 - 第一回全国高専体育大会を豊田高専主管で開催(会場名古屋)バレーボール優勝。
  10月7〜10日 - 第一回杜若祭開催、テーマは「若者よ!燃えあがろう」7日寮祭、8,9日文化祭(本山政雄講演)、10日体育祭
  11月5日 - 校舎落成式を挙行。
  12月8日 - 学生に政治活動の禁止等を告示。
・ 1966年4月 - 庶務課、会計課が設置
・ 1966年8月 - 本校主管第1回全国高等専門学校体育大会。水泳プール竣工
・ 1967年(昭和42年)2月 - 学生寮竣工
・ 1968年(昭和43年)
  3月 - 学生寮、武道場、学生集会室竣工
  4月 - 土木工学科が増設。低学年全寮制実施(女子学生を除く)
・ 1969年(昭和44年)
  3月 - 土木工学科棟校舎、学生寮竣工
  3月22日 - 第2回卒業式にて、卒業者116名校歌斉唱拒否事件発生(後述)。
  4月1日 - 学寮の名称を公募により改称。
  5月14日 - 許可制についての討論会を開催。
  6月18日 - 学生集会が開かれ、添書制廃止などを要求。
  6月28日 - 文化部自治会が結成。
  7月7日 - 学生主事、他高専宛に七夕文書発送。
  7月9日 - 教官会議に学生が傍聴を要求し、座り込む。
  8月15日 - 「豊田高専広報」第一号を発行、父兄宛に郵送。
  9月5日 - 学生会が公開質問状を提出、10日教官会議に回答を求め介入
  9月24日 - 学生総会で話し合いを要求する全学ストライキを可決
  9月25日 - 学生会と教官との団交開催、学生会ストライキ続行を決議
  9月29日 - 教育後援会がスト収拾のため全学集会を開催、学校側は2日間の休講措置を発表、漸次10月5日まで延長
  10月6日 - 学生総会開催、学生側スト解除
  10月8日 - 学生3名がハンガーストライキに突入、10日中止
  10月17日 - 学生会役員選挙実施
  10月下旬 - 全国校長会議において「添書制の運用については各学校の自主性に委ねる」との要旨が決定。
  10月26日 - ハンスト決行三学生を退学に処す
  10月29日 - 前学生会長を退学に処す
  11月1〜3日 - 第4回杜若祭開催、テーマ「改革」、体育祭は中止
  11月11日 - 一部学生が校舎を封鎖、教職員が解除
  11月13日 - 学生らが校舎封鎖に成功、定期試験延期
  11月18日 - 校舎封鎖自主解除
  12月26日 - 校舎封鎖関係学生14名の処分を告示
・ 1970年(昭和45年)
  1月1日 - 広報第二号(学校指針)を発行
  3月27日 - 学生会が「豊田高専闘争の記録」を発行
  4月 - 学生課設置
・ 1972年3月 - 図書館工事竣工
・ 1973年2月 - 電子計算機室、豊田記念会館竣工
・ 1973年5月 - 創立10周年記念式を挙行

榊米一郎校長時代

・ 1974年4月 - 校長須賀太郎が退官、名古屋大学教授工学博士榊米一郎が第2代校長に任命

市川眞人校長時代

・ 1976年10月 - 校長榊米一郎が豊橋技術科学大学長に就任、名古屋大学教授工学博士市川眞人が第3代校長に任命
・ 1976年11月 - 学生食堂増築竣工
・ 1977年3月 - 身体障害者用エレベーター取設、生活廃水処理施設その他取設竣工
・ 1978年1月 - 機械工学科流体実験伝熱実験装置上屋新営竣工
・ 1978年10月 - VTR編集装置完成
・ 1979年1月 - 建築学科構造物繰返し載荷試験棟新営工事竣工
・ 1979年3月 - 合宿研修所竣工、データステーション開所
・ 1980年3月 - 土木工学科土質実験棟竣工
・ 1981年1月 - 福利厚生会館竣工
・ 1981年7月 - 校舎増築竣工
・ 1982年3月 - 第2体育館竣工
・ 1983年6月 - 材料・構造物疲労試験センター設置
・ 1983年11月 - 創立20周年記念式を挙行
・ 1985年3月 - 校長市川眞人が退官

岩田幸二校長時代

・ 1985年4月 - 名古屋大学教授工学博士岩田幸二が第4代校長に任命
・ 1986年3月 - 学生寮竣工
・ 1987年3月 - 学生寮全棟改修工事竣工
・ 1987年4月 - 情報工学科増設
・ 1988年9月 - 情報工学科棟竣工
・ 1990年9月 - 校長岩田幸二が退官

堀井憲爾校長時代

・ 1990年10月 - 名古屋大学教授工学博士堀井憲爾が第5代校長に任命
・ 1993年4月 - 土木工学科が環境都市工学科に改組
・ 1993年11月 - 創立30周年記念式を挙行
・ 1994年4月 - 専攻科(電子機械工学専攻、建設工学専攻、情報科学専攻)設置
・ 1995年3月 - 校長堀井憲爾が退官

鬼頭幸生校長時代

・ 1995年4月 - 名古屋大学教授工学博士鬼頭幸生が第6代校長に任命
・ 1996年3月 - 専攻科棟竣工
・ 1996年7月 - 学内共同利用施設データステーションをマルチメディア情報教育センターに改める
・ 1999年4月 - 電気工学科が電気・電子システム工学科に名称変更
・ 1999年11月 - 福利施設(食堂)竣工
・ 2000年3月 - 校長鬼頭幸生が退官

〜木不折校長時代

・ 2000年4月 - 名古屋大学教授工学博士〜木不折が第7代校長に任命
・ 2001年11月 - 講義室・土質実験室竣工
・ 2002年11月 - 地域共同テクノセンター竣工
・ 2003年2月 - 校舎改修工事(教室)竣工
・ 2004年3月 - 校舎改修工事(電気・電子システム工学科棟、建築学科棟)竣工
・ 2004年4月 - 実習工場をものづくりセンターに名称変更、独立行政法人国立高等専門学校機構が設立する国立高等専門学校となる
・ 2005年3月 - 校長〜木不折が退任

末松良一校長時代

・ 2005年4月 - 名古屋大学教授工学博士末松良一が第8代校長に任命
・ 2005年10月 - 校舎改修工事(一般管理棟、図書館及び第1体育館の耐震改修)、図書館エレベータ竣工
・2006年12月 - 環境都市工学科棟改修工事が完成
・2008年4月 - 事務組織改組により、総務課・学生課の2課体制となる
・2009年3月 - エレベータ工事(環境都市工学科棟及び専攻科棟)が完成
・2011年3月 - 校長末松良一が退任

〜井吉明校長時代

・2011年4月 - 名古屋大学教授工学博士〜井吉明が第9代校長に任命
・2013年3月 - 学生寮新営工事(創志寮)が竣工
・2013年11月 - 創立50周年記念式を挙行
・2014年3月 - 機械工学科棟改修工事が完成
・2017年3月 - 校舎改修工事(一般学科棟・管理棟)が完成、校長〜井吉明が退任

田川智彦校長時代

・2017年4月 - 名古屋大学教授工学博士田川智彦が第10代校長に任命
・2017年9月 - 学生寮改修工事(大志寮)が完成
・2019年4月 - マルチメディア情報教育センターをICTセキュリティ教育センターに改組
・2020年3月 - 創造工房棟が完成
・2021年7月 - 学生寮新営工事(輝志寮)が竣工
・2022年3月 - 校長田川智彦が退任

山田陽滋校長時代

・2022年4月 - 名古屋大学教授工学博士山田陽滋が第11代校長に任命

本科(準学士課程)

本科は以下の5つが置かれている。(括弧内は略称)
・ 機械工学科(M)
・ 電気・電子システム工学科(E)
・ 情報工学科(I) HP
・ 環境都市工学科(C)
・ 建築学科(A)
各学科1クラス(定員約40名)ずつで編成されており、各科の専門教育並びに一般教育科の一般教育を受講する。5年制の一貫教育を経た後には、「準学士」の称号を使用することができる。

・ 2023年(令和5年)4月時点。


colspan="2" 名称(略称)
英語名称!!設立年月日!!学科長!!定員!!学生数
(女子)
-

わかさわやすのり/鬼頭 俊介 200 215(28)
-

きむらつとむ/犬塚 勝美 200 221(34)
-

きむらつとむ/安藤 浩哉 200 230(47)
-

'''かんきょうとしこうがくか/'''環境都市工学科(C)
Civil Engineering
1968年やまおかしゅんいち/山岡 俊一 200 215(72)
-

やまだこうじ/山田 耕司 200 217(107)
-
colspan="4" ん3/計
1000
1098(288)

専攻科(学士課程)

専攻科は以下の3つが置かれている。(括弧内は略称)
・ 電子機械工学専攻(D)
・ 建築工学専攻(K)
・ 情報科学専攻(J)
2年間の専攻科を卒業し、学位授与機構の試験に合格すると、「学士」の学位が授与される。

海外留学


2,3年時に特定の留学派遣団体(AFS,YFU,EIL)の交換留学制度を通じて1年間海外留学に行くことが出来る。留学先では殆んどの学生が現地の高校に通い、ホストファミリーの家庭に入り生活をする。本校では年間30名以上の学生が留学に行っている。

教室、実習施設

授業は第1講義棟、第2講義棟の教室で行われ、一部の専門の授業は各学科棟(機械工学科棟、電気・電子システム工学科棟、情報工学科棟、環境都市工学科、建築学科棟)で行われる。(一部教室が各学科棟にあるクラスもある。)

実習施設は以下の建物がある
・ ものづくりセンター
マルチメディアCAD/CAM/DNCシステム、マシニングセンター、CNC旋盤およびCNCフライス盤等の各種設備が備えられている。機械工学科の基礎実習、メカトロニクス実習、創造総合実習、工学実験等の授業科目および卒業研究のほか、多学科の実習、専攻科学生の実験、特別研究および研究装置の製作等にも利用されている。また高専ロボコンの制作活動にも活用されている。
・ 材料・構造物疲労試験センター
主な装置として、振動三軸圧縮試験機、30tonf油圧サーボ疲労試験機、地震波振動台装置、動的載荷試験装置の4種類がある。

また、情報工学科棟には情報工学科生専用のコンピュータ室がある。

図書館

HP

高専の学習指定図書、各種専門参考書、辞典、文学・文芸書、文庫、新書、美術関連図書など約9万冊の蔵書がある。また新聞、雑誌閲覧コーナー、ビデオ・DVD鑑賞を行うこともできる。現在、本校が整備をすすめている英語多読図書は約5,300冊の蔵書がある。一般公開されており、学校外の地域住民の利用もある。

体育施設

屋内施設として第1体育館、第2体育館、武道場、弓道場、卓球場、屋外施設として陸上競技場、野球場、ハンドボールコート、テニスコートがある。

学生食堂

1階に寮生食堂(300席)、2階は一般食堂(100席)となっている。

ICTセキュリティー教育センター

コンピュータルーム。第1演習室、第2演習室に約100台のパソコンが設置されている。全学科共通で情報処理科目に使用。英語科目でのTOEIC対策のeラーニング教育にも利用されている。また休み時間や授業後は学生に開放されており、レポート・プレゼン資料作成、Visual Basic,C++,Java,Fortranなど各種プログラミング、CAD製図、インターネットなどを行うことができる。

地域共同テクノセンター

民間企業・大学・研究機関などとの共同研究、本校の施設充実を目的に、平成14年10月に設置。地域交流部門、共同研究部門、技術教育研究部門、データベース部門において産学官連携の中核的役割を担う。

学生寮


校内に、5棟の男子寮、1棟の女子寮(大志寮)、1棟の男女高学年寮(創志寮)、1棟の国際寮(輝志寮)が備えられており、410名が学生寮で生活をしている。学生は入寮希望者の中で選考が行われ、通学の困難度・学業成績・部活動・学校や寮への貢献度等の総合的な評価によって、高学年寮に入る学生が選ばれる。また、本校の学寮の最大の特徴として「班長・指導寮生制度」がある。この制度は面接選挙によって選ばれた少数の高学年学生(3〜5学年)が、低学年寮で1、2年の後輩とともに過ごし、生活全般および勉学をサポートする役割を担っている。

本校の学寮では寮生の自主運営を尊重するという名目上、日々の寮生活の中で教員が関与する場面は点呼確認以外の点で殆んど無い。起床、点呼、消灯など一定の生活規則に対しては、教員が直接関与する方法をとらず、指導寮生及び班長が学校当局側の方針を一般寮生に守らせるように指導するという方法がとられている。

2013年、男女高学年寮として創志寮が新たに建設された。

2017年、大志寮の改修工事が行われ、10月期から大志寮が女子寮へと変更された。全女子寮生は大志寮に住むことになる。それに伴い立志寮が男子寮となった。

学生会


HP

学生全員を会員として構成される「学生会」が設けられている。学生会の目的は「学校の指導の下に,学生会の自発的な活動を通じて,会員それぞれの人間形成を助長し,本校教育目標の達成に資すること」、「本校創立の精神と民主主義の精神にのっとり,会員の自治活動を通じて学生生活の充実と良い校風の樹立を図り,もって良い社会人としての資質を養うこと」であり,学校の助言・指導を受けて各種の学生会行事,クラブ活動,同好会活動などを運営している。content:familytree/start
CAB:学生総会
familytree !
AAAA:こうよう祭実行委員会
CEMC:イベントパート
CEMC:装飾パート
CEMC:内務パート
NCMPF:広報パート
CLDM:音響パート
CLDM:電源パート
CLDM:展示パート
CLDM:マネジメントパート
CLDM:司会パート
familytree !
MLIT:評議員会
familytree !
MOE:監査部
familytree !
MOD:選挙管理部
familytree

役員

表は2023年現在。
class="wikitable"
+
役職
職務
人数
資格
-
会長
学生会を代表し,会務を統括する。
1
選挙にて選出
-
副会長
会長を補佐し,会長に事故があるときはその職務を代行する。
2
選挙にて選出
-
書記
各議事録・通信文等の作成及びその保管にあたる。
2
選挙にて選出
-
一般会計
学生会一般の財務を処理する。
1
選挙にて選出
-
議長
評議員会を代表し,総会並びに評議員会での審議の進行を務める。
1
団体内の互選
-
内務
学生会活動における物品の貸借等,内務を担当する。
1
選挙にて選出
-
広報
学生会活動における広報を担当する。
1
選挙にて選出
-
監査部長
監査部を代表し,学生会の会計に関する監査を行う。
1
団体内の互選
-
選挙管理部長
選挙管理部を代表し,役員の選挙に関する事務を統括する。
1
団体内の互選
-
一般執行部員
執行部職務や行事運営の補助を行う。
相応数
会長,副会長,書記,一般会計,内務,広報の全員の承認

運動部

・ 陸上競技部
・ 水泳部
  昭和41年8月30日にプールが竣工。昭和42年度より同好会として発足。
・ 硬式野球部
  昭和38年5月創設。
・ ソフトテニス部
  軟式庭球部は昭和38年11月発足。
・ テニス部
  硬式庭球部は昭和45年活動開始。昭和46年硬式庭球同好会が結成。昭和47年、部に昇格。
・ 卓球部
・ サッカー部
・ オリエンテーリング部
  オリエンテーリング同好会は平成18年12月発足。平成20年7月にオリエンテーリング部へ昇格。

・ バスケットボール部
  昭和39年の第二回東海地区高専大会から競技が行われた。
・ 女子バスケットボール部
・ バレーボール部
  昭和38年12月、同好会という形で始まる。翌年4月正式にクラブとして誕生。昭和41年5月豊田西高校に初勝利。
・ 女子バレーボール部
・ ハンドボール部
  現在の図書館が建っているところから始まる。
・ 体操部
・ 柔道部
  昭和44年度、豊田高専としては初の部歌・遠征歌である「柔道部遠征歌」(作詞 橋本敬治郎、作曲 山田壽勝)が作られた。

・ 剣道部
・ 弓道部
  昭和39年3月に学生会により承認され発足。
・ 山岳部
  学校設立間もなく、登山家石岡繫雄を部長とし発足。
・ 空手道部
・ バドミントン部
・ ラグビーフットボール部

文化部

・ 吹奏楽部(HPTwitter)
・ 写真部(HP)
・ 放送研究部(Twitter)
  昭和40年6月10日無線局免許申請、同7月31日免許交付。
・ 自動車部(Twitter)
  創立当時は、トヨタより寄贈された中古のクラウンを校内に設けた簡単なコースで運転の練習をしたり、エンジンの分解組立をしていた。
・ インターアクトクラブ(部)
  昭和41年1月25日に豊田ロータリークラブのスポンサーシップのもとに発会。須賀太郎初代校長の提案により誕生。
・ 軽音楽部(Twitter)

・ コンピュータ部(HP)
  昭和54年の夏休み後、「コンピュータ愛好会」として結成。この年は、電気工学科でTK-80を使用したマイコン教育が始まった年だった。メンバーは電気工学科が中心だった。昭和56年、春の学生総会で同好会への昇格が承認。この頃、文化祭に愛知学泉女子短期大学の学生を迎え、展示と実演をした。また、豊田高専の部員が女子短大に出かけることもあった。昭和62年、情報工学科が新設され、コンピュータに興味を持つ学生が増加し、部員数も増加。平成3年、学生総会で部への昇格が承認。
・ 囲碁・将棋部
・ 茶道部(Twitter)
  昭和53年春、活動開始。翌54年、学生総会において、同好会として承認され、正式に活動を開始。以来、文化祭で呈茶している。
・ 演劇部(HP)
・ 美術部
・ スペース・デザイン研究部
  建築同好会は平成15年12月発足。平成19年5月にスペース・デザイン研究部へ昇格。

・鉄道航空研究同好会(HP)
 平成18年5月発足。
・ アートクリエイト同好会
  平成23年12月発足。
・ 天文date:2023年5月同好会
  平成21年1月発足。
・ 機巧同好会
  平成19年12月発足。

廃部された部活動

・新聞部
 豊田高専創設当時、「豊専新聞」を発行。昭和53年4月復活。平成19年5月廃部。
・ディベート同好会
 平成18年12月にコミュニケーション研究部へ昇格。平成23年12月廃部。
・スキー部
・ダンス同好会
 平成24年7月発足。

こうよう祭

2001年より「文化祭」を名称変更。豊田高専で年に1度秋に開催される文化祭。「秋で木々がこうようするころ、文化祭で気分をこうようさせに、豊田高専にいこうよう、というトリプルミーニング」が由来。
class="wikitable mw-collapsible"
+
開催年度
テーマ
-
2014年
見せたいモノがある
-
2015年
なんだっていいんだ、楽しければ。
-
2016年
OneChance
-
2017年
GET OVER
-
2018年
55(Go!Go!)TOYOturn up
-
2020年
REBOOOOORN
-
2021年
YOU+MORE (ユーモア)
-
2022年
CANMEIK
-
2023年
LoVe it

展示

・ 学科展
  4年生による、各学科の特色を活かした高専ならではの技術的な展示
・ クラス展
  2年生による、各クラスで作り上げた思い思いの展示
・ ゲート
  3年建築学科の学生による、こうよう祭来場者を迎えるゲートの展示
・ 有志展
  各クラブによる、それぞれの日ごろの成果を集約した展示

イベント

全日程を通して実行委員会によるステージ上でのイベントが行われる。ゲストの芸能人によるスペシャルステージも例年企画されている。

模擬店

食欲の秋にピッタリのクラブや有志による模擬店が多数出展される。また、クラブ活動や個人で作ったものを販売するバザーも行われる。

ホームページ

https://koyosai.com/

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MEICAn(メイきゃん)

こうよう祭のマスコットキャラ。2016年、学内で公募し、3つの候補の中から投票で選ばれた。(以下設定)

未来の豊田高専で作られたロボット。自分の生まれた学校について知るため、こうよう祭にやってきた。性格は、好奇心旺盛でちょっと子供っぽいところもある。好きなことはいろんな人と接し、楽しむこと。お腹のメーターは電池容量。疲れた時はしっぽのコンセントで充電する。

入試預託金制度

背景

高専と高校の併願を認めた結果、入学試験合格者のうちの辞退者の確定作業を含む入学試験合格辞退者対策に高専各校とも腐心していた。豊田高専の昭和39年度入学者の入試倍率は15.4倍であったが、入学者124名の決定まで補欠合格を6回にわたって発表している。合格者の45%が高校に入学した。この傾向は全国的で、入学辞退者が平均40%を超えていた。

経過

昭和40年度入学者の入試倍率は11.3倍、試験日は2月20日と21日の両日、豊田高専と名古屋大学の2会場で実施された。合格発表は3月10日とした。前年の数次に亘る合格発表の労力に鑑み、入学希望者の能率的選抜について入学試験委員会で検討した。その結果、入学試験の面接日を高校入試日に合わせる方法と、合格発表日までに入学金、前期授業料、学生会費などを前納させる方法とについて審議した。後者は、私立学校と違い入学しなかった場合返還すればよいので後者の方法を採用することとした。面接はそれでも4回にわたって実施し、前納金納入者が定員に満ちて3月10日に合格発表を行った。しかし、3月10日文部省から、前納金の返還と受験生の出身中学校への謝罪などの指示があった。翌日には全国版でこのことが新聞報道され、同日全職員が手分けして全県にわたって前納金の返還と謝罪に追われた。

影響

3月12日の朝日新聞名古屋本社印刷分「その時、この人」に当時の豊田高専電気工学科助教授高田和之の発言が載った。これを機に新聞各紙は全国高専の合格者対策を調査し、「入学辞退者が続出、きらわれる国立高専」(昭和40年3月20日朝日新聞)、「腕試し組に悩む国立高専、定員確保は一校だけ、軒並み三割前後の入学辞退者」(3月23日毎日新聞)、「入学辞退者の多い不評な高専を新増設するよりも地方大学の増募、充実にあてるべきであった。」(3月24日中日新聞社説)など高専に不利な情報が宣伝されるにいたった。なお、翌昭和41年度入学者の入試倍率は10.4倍(機械8.9、電気10.1、建築12.4)で入学者決定までの面接は8回に及んだ。

その後

昭和45年度入学者からは学力検査合格者に対する面接を愛知県公立高校入試日と同日として入学者の確定を早めた。また、昭和48年度入学者から愛知県公立高校入試科目が5教科から、国、数、英の3教科に削減されたのに合わせて豊田高専も3教科に変更した。令和4年度、現在も学力検査を試しに受験することが出来るが、入学辞退者は機械工学科1名、電気・電子システム工学科1名のみであった。

歌われざる校歌

須賀太郎校長の友人に作曲家の前田卓央が居るので、ともかく歌詞を作ることとし、昭和43年度、校歌委員会は校歌歌詞を教職員・学生から公募し、数十篇のなかから4篇の佳作を選んだ。校歌委員会の委員長であった教務主事の簗瀬一雄教授から主事会議の席上この4篇を基にして一つに作り直し、作詞者を須賀校長名にしたいとの提案がなされた。席上、2,3の出席者は4篇を作り直すことは止む得ないが作詞者は4名の学生名にすべきであると主張したが、作詞者は校長名として、作曲が依頼された。制定は昭和44年1月。時あたかも反戦デモが電気工学科の学生を中心にしばしば展開されていた。この傾向は第二回卒業式における一電気工学科学生の校歌斉唱拒否発言による卒業式妨害、それに伴う全校祝賀会の中止へと繋がった。学生の言い分は「校長名での作詞の校歌をわれわれは認めることはできない。」というものであった。以後長い間、「歌われざる校歌」として封印され、豊田高専の式典に校歌が歌われることはなく、学校要覧にも掲載されたことがなかった。平成17年、着任早々の末松良一校長は、入学式に校歌が歌われないのを訝しく思い、勤務の長い教職員に「歌われない校歌」の由縁を聞いた。その結果、歌詞と旋律をそのままで、校歌を復活させるべく行動を開始した。まず、吹奏楽部の顧問教員であった安藤浩哉教員に相談し、新たに吹奏楽部が演奏できるよう編曲をし直すことにした。安藤教員を通じて、鈴木英史に編曲を依頼した。安藤教員は、かねてから吹奏楽の全ての楽器の音色が生かされるような曲づくりをする鈴木の作品に注目していた。その結果、新しい曲ではないかと思われるほど生まれ変わった、新生「豊田高専校歌」のスコアができた。また、作詞者の氏名で味噌をつけていたため、教務主事松浦教員の発案にて、作詞者を明示せず、「歌詞撰定須賀太郎」とした。

学園紛争

ここでは、1969年(昭和44年)の紛争を扱う。

背景

昭和44年頃、学校周辺に豊田反戦委員会、豊田青年学生センター、又はだしの会・KOBと称する団体等の政治的活動が見受けられた。また、豊田高専内にも豊田高専反戦委員会が結成されていた。同年4月沖縄デー当日、豊田市役所前で反戦集会が開かれ、その後駅前までデモ行進が行われ、卒業生・中途退学者も含む在校生計十数名が参加していた。翌日午後校内においても学生会長を含む十数名が沖縄集会を行った。当時の学生会役員中反戦委員に名を連ねていると思われる者もあり、当初は、学校創設直後から引き続き問題となっていた学生会則を取り上げていたが、次第に学生準則、学則へと問題点を拡げ、集会その他許可制を無視する動きが見受けられるようになった。

6・18集会

同年6月18日学生集会が開かれ、教官職員を含み約300余名が参加した。その席上添書制に関する学生主事の発言が制度廃止を求める学生の主張に対し、希望を持たせるような回答であったところから、その後他高専との対応に苦慮する事態となった。本件に関する他高専からの照会に対し7月7日、学生主事は返書を他高専宛発送した(所謂七夕文書)。しかし、6・18集会における学生主事の回答と七夕文書との内容に齟齬ありとする学生の不満が噴出した。6月28日、学校の許可を得ることなく、新聞部、社会科学研究部等を中心とした自主的な文化部自治会が結成された。また7月9日、教官会議の席に学生10名が無断入室した。議長の退出命令で3名は退去したが、他7名は退出せず、会議は中止、2時間後の散会になった。7月10日に夏季休業に入った。8月15日、学校は父兄に実状の周知徹底を図るための文書を父兄宛発送した。この文書が「豊田高専広報」第1号である。

公開質問状・団交

夏休みが明け9月5日、学生会より公開質問状が校長宛に提出された。同月中旬学生会長が無期停学を命ぜられた。その頃、学生主事並びに学生主事補の交代が行われた。交代当日の9月10日、大会議室に学生約30名が参集、新学生主事他教官数十名がこれに対応し、初めての団体交渉となった。その際公開質問状に対する回答が行われた。また数日後、学生が学校放送設備を使って、7・8時限全学生集会の呼びかけを行った。学生主事はこれを制止したが、学生約350名程が授業を放棄して体育館に集合、学生総会と称して、学生会長の無期停学処分の撤回、校長との話し合い要求等を決定した。この頃より学生主事は一般学生に自重を促す告示を数多く掲示した。

全学ストライキ

9月24日、学生主事他数名の教官の見守る中で学生総会が開かれ、学生は校長との話し合いを求めて過半数の賛成を得て、全学ストライキを議決した。学校側は学生総会の意向を尊重し、翌朝9時30分より全学生と全教官との話し合いが体育館で行われた。しかし、話し合いは平行線をたどり、結局授業を強行した。出席学生は疎らで、中には後ろ向きで着席する者もいて、まともな授業にならなかった。9月28日日曜日、事態を憂慮した教育後援会は臨時総会を開き、同役員から斡旋案が学生と学校側とに掲示されたが不調に終わった。学校は、開寮のまま1週間休講となった。この頃、卒業生、中途退学者、他高専の学生、会社労組員と称する者等部外者の学校への無断出入りが少なからず見られた。また朝日新聞紙上に高専教育を批判する記事が掲載された。全国高専連合準備会と称する団体から、準則粉砕、検閲粉砕、学生主事会議粉砕、校長会粉砕、高専解体、安保粉砕、日帝打倒を叫ぶ印刷物も配布されている。九月末深夜1時30分頃、対策検討中の教官会合の席に一卒業生が現れ、卒業生の支援を述べ、反帝闘争の声明文を読み上げる一幕もあった。1週間の休講中、大部分の学生は自宅に帰り、この間学校側では対策会議が続けられていた。他方停学中の学生会長の姿が度々学内で見かけられた。また、約230名参加の学生集会が10月5日日曜日午後開催され、校長との話し合いを求め、約40名がフランスデモを行ったりした。

スト解除

1週間の休講を終わり10月6日月曜日全学生が登校、体育館で校長訓話があり、5年生の一学生による下記提案に基づきストライキは解除された。

(一) 添書制については校長が最善を尽し、完全撤廃に努力することを表明し、その意思を告示し、他高専へその意思を通知する。

(二) 教官と学生との定期的な話し合いの場を持つ。

翌日10月7日、学生会役員は辞任し、予定されていた行事、体育祭は中止され、授業は再開された。上述した一般学生並びに学校の動向をみて、10月8日ストライキの中心になった数名の学生が学生玄関前でハンガーストライキに入る等の事もあったが、数日後には解消した。

退学処分

10月中旬、学校の諸規定無視等、学校の秩序を乱した諸々の事件において指導的な役割を演じた学生3名に対し、教官会議の議を経て退学が勧告された。これに対して抗議集会、抗議デモが繰り返され、全闘委も結成されたが、この頃から学生集団は次第に二分して行く様に見受けられた。10月26日にハンスト決行三学生が、10月29日に学生会長が退学処分となった。その後全闘委が豊田市駅前附近で抗議のパンフレットを配布する等の行動もあった。11月に入り、なお一部の学生の動きによる混乱が見られたが、大部分の学生たちは同月2日及び3日の文化祭を平穏に実施した。学生会役員辞任後、若干の混乱を経て新しい選挙管理委員会のもとで新役員が選ばれた。

学園封鎖

11月11日より定期試験が予定されていたが、当日深夜午前3時ごろより一部の学生が学校の周辺で動き始め、5時より正面玄関及び学生玄関の封鎖を開始した。しかし間もなく教職員によって排除され、定期試験の欠席学生は計約20名にとどまり、その日の試験は無事終了した。11月13日の午前4時頃、中途退学者を含む学生集団約20名が校舎の窓ガラスを破って入り、机・椅子・ロッカー等によるバリケードを築き、教室を次々に封鎖して試験の続行は不可能となった。学校は直ちに休講措置をとり、学生を帰宅させた。定期試験は、5年生は学校外の豊田市陣中、豊田高等職業訓練校で、1年から4年生までは校内で後日実施することとした。

封鎖解除

バリケード封鎖は約1週間続いたが、この間5年生の1部の学生が中心となって多くの学生に呼びかけ、学生の自重を促し、自主的に封鎖は解除された。なお定期試験は前期決定の通り無事実施され終了した。新学生会役員は学校の秩序回復のため少なからぬ努力を払ったが、封鎖等その後の事態への対応に疲れ切った様子が見受けられ、爾後学生会の役員名もさだかでなく、学生会の活動一般はその後約1年間沈滞の途を辿ることとなった。最終的に12月26日、既出退学処分と別に、退学2名、無期停学9名、有期停学5名、注意25名の処分が本人及び父兄に対し申し渡された。

その後

二年余り経過した、昭和47年3月頃、元豊田高専関係者が執筆、本紛争を取り上げた記事が公刊された。同年4月下旬、卒業生等4名が紛争全般に関わる公開質問状を校長宛提出した。さらに5月、上記4名を含む5名が告発人となり、校長以下4名を被疑者とした名古屋地方検察庁の告発状の写しが学校配布された。

卒業後の進路


毎年、約200名の卒業生のうちほぼ半数が進学、残りの半数が就職をする。

進学先は、専攻科や高専卒業者の為の国立大学である技術科学大学の他、難関国立大学へ進む者も多い。私立大学へ進む者は少数である。

また、就職においてもさまざまな業種の有名企業へ人材を輩出している。就職希望者に対する求人数の倍率は学科により20倍から60倍となっている。近年は進学希望者が増え就職希望者が減っている反面、求人企業が増える傾向にあり求人倍率は年々上がっている。

出身者


・ 三鍋伊佐雄 元大東建託社長
・ 草地博昭 磐田市市長

出典

外部リンク


豊田工業高等専門学校
豊田工業高等専門学校学生会
豊田高専同窓会



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