群制度時代でも四日市と桑名は拮抗してた年が多いですが、当然群制度撤廃で即、四日市黄金時代に君臨ですよ。
群制度以前の桑高は今の川越普通科レベル
群制度以前の南高は今の四西普通科レベル
群制度が廃止になっても元のレベルまで落ちなかった両校はたいしたものです
私(45)の時代は、四高、四南の一群の方が桑名より全然上でしたよ。
一群>桑名>四西、川越≧桑西、四郷
以上の感じでしたよ。
群制度の分け方は、四高と南高を入試点数から順番に配置していくのでレベルは同等です。
上記の方が言っているようなレベルではなかったですね。
えっ?
俺(46)らの学校では桑名に受からない子らが一群受けに行ってたよ。
桑員地区はみんなそんな感じだったけど四日市やその周りの地区では違ったんですね。
今、桑高や南高が進学校と言われることがあるのは、四高がかつて群制度に巻き込まれたからなんですよね
質問者さんのような年代の保護者の方がお子さんにその時の話をしても、今とはずいぶんレベルが異なっています
じわじわとではありますが、四高の一強に戻りつつあるので群制度以前のような認識をすべきです(ただその時より中高一貫の私立のレベルが上がってるので、進学実績まで回復するのは難しいですが)
桑員、三泗地区共に今みたいに子供が少なくなってきており、どこでも受験出来るわけではなかったので・・・。
私(45)は三泗地区でしたが、上記のさんの逆で当時の住んでいる場所が桑名受験出来る
地域だったのですが、一群に届かない人が桑名を受験していましたよ。
ようやく45年ほど前の四高に戻った感じで、卒業生としては嬉しい限りです。
45〜6歳の二人の方の言ってる事が違いますが、46歳の方が正しいと思います。
群制度の目的の一つに桑名、神戸、松阪のレベルアップを図るという事があり、理数科も設置されたわけですが、最も成功したのが桑名高校でした。
桑名の優秀な生徒が1群を敬遠して受験しなくなったのは四高にとって大打撃でした。
実際それまでの四高の上位には桑名員弁の人がめっちゃ多かったですから。
52の私は四日市を受ける制度はなかったです。
桑名は当時四日市とかなり競い合っていました。理数科は上だと聞いておりました。
情報にあやまりがあればそれまでですが。
ちょっと興味があったので 参加させてもらいました。
私(44) 桑員地区の中学で当時は
上から桑名理数科 桑名普通科 一群 川越でした。当時の私立滑り止めが暁(特別進学?) メリノール 淑徳でした。だから同級生は東大 京大など名門大学で 落ちこぼれの私は肩身が狭かったです。
時代と共に変化してますねー(^^)
群制度がスタートした当初は、桑名の中学から1群の受験は認められなかったのでしょうか?
当然四日市から桑名高校の受験も出来なかったわけですよね?
これは初耳です。
桑名いなべからも一群は受験できましたよ。
桑名群だった昔の私たちは、先輩も含め1群を受けていたことは聞いたことないです。
しかし1年後輩が通っていたので なぜ?と思いました。
子供だった私にはそこまでしかわかりませんでした。
誤字訂正↑
桑名群→桑名郡でした。
どこかのタイミングで受験出来る事になったのかも知れませんね。
ただ、南高に振り分けられたら通学が大変だから、殆どの人が1群を敬遠したのは容易に想像がつきます。
それでさらに桑高のレベルが上がったのでしょう。