能開センター高松校は主に公立高校受験クラスで、中学生がほとんど。時間をずらして附属中学受験クラスが日曜日午前中にあったそうです。土曜日の午前中もふつうに学校があったので、高校受験クラスは日曜日の昼から夜まで5〜6時間だったとのこと。今の高予備中学校クラス(高校受験)のようにはっきりクラス分けしていたということ。
西と一高が逆転したのは2005〜2010年頃で、今の30〜35歳前後。特理と国際が他高校にないイベント(海外研修)をするようになった頃。それまでは高商の英実が一高の国際の役割を果たしていた。特理のSSHも大きい。西高が人気がなくなったのは、紫雲、勝賀、香東が定員の半分をしめるようになってから。制服がまったく変わっていないのに
偏差値というか診断テストの得点率で西と一高が逆転したのも驚きですが、昔は診断テストは200点満点だったようです。大手前は想像を絶するほどの網走監獄だったとのこと。
上のきょうだい(20代)が中学生の時に一高の特理に入学したいから塾に入りたいと言って、とある有名塾に親子(母ときょうだい)で行った時の話。きょうだいの成績をみて、塾の先生は「一高は難しいかも」と言ったそう。その時初めて親は一高が西高より難しいことを知ったそうで、あと一高に特理があるのも知らなかったそう。20世紀の昔と違って一高がものすごく難関になっているのに相当驚いた親。結局きょうだいは猛勉強して特理に入ったのですが、きょうだいも特理の存在を知ったのも中学生になってだいぶたってからなので、結果的に受かったからよかったものの、もっと早くから知っておけば塾で驚愕することはなかったのに恥ずかしいと、親の後悔話。
英実とかできたばっかの香川中央とかは昭和末期〜平成の頭に1年間アメリカ留学1名か数名かあって大人気だったとか。親世代はアメリカは自由であこがれの国だったそう。今は日本ブームですが、JPOPや日本製品や日本の文化や100均が広まったのは21世紀に入ってからで、昭和と平成初期はニュースと映画くらいしか情報がなく、とにかく高校生大学生はアメリカとかイギリスに興味が向いていたようです。英実が廃れた今は、一高の国際人気もその親の影響を受けた高校生がいくらかいるからだと思います。
北高ができて香川中央ができて桜井三木ができて完成した感じですが、桜井三木ができる前は高高にギリギリ無理なら西高なので、西高は通学時間1時間半とかの生徒も多かったそう。一高はJRとことでんの駅から近く、綾歌綾川東かがわさぬき市からの生徒を獲得できたのも大きい。西高滑落の最大の理由は三木高校が開校から十数年間、当時の西高レベル(今の一高レベル)を維持したので、西高にがんばって通っていた層の後輩、ことでん長尾線沿線、しかも最寄り駅からさらに自転車で20〜30分の山間部の生徒が三木に入学するようになった。三木高校から京大が出たのも拍車がかかった(三木町にある国立大学の教授のこどもとか)。西高の全盛期はトップ層が現役旧帝理系合格。最近のトップ層にも旧帝いるようですが、旧帝入学者が浪人2対現役1の比率だった30年前のほうが明らかに西高は難関高校だったということ。昭和には自転車30分ことでん40分バス20分というハードな登校であっても魅力的な県立高校が鬼無の山に存在したのだ。また21世紀初頭に誠陵1期生が早稲田などの合格者を出した時期がちょうど大手前暗黒期で、この私立2強が南北朝時代のように対立していたが、そのうち大手前が不死鳥のように返り咲き、高高不合格者の受け皿高の地位を不動のものとした理由は未だ不明。なお明善高校が共学化し英明高校となってしばらくして甲子園に出場したことも高松私立高の乱の大きな出来事。男子の公立不合格者で大手前に受からない生徒の受け皿が高松中央しかなかったので大歓迎された。昔は大手前は今のSSとSくらいしか合格者を出さなかったそう。現在のAやVなんて受かるはずなく、最初から出願すらしなかったらしい。