久しぶりに足利の現状を見てびっくりしました。OBさんの言っているように、70はなかったと思いますが、1960年代後半では少なくとも太田や栃木とはほぼ同じ
偏差値だったと記憶しています。産業の交流や人口動態が強く影響したのでしょうか?
昭和60年代前半の卒業ですが、
偏差値では、宇高、栃高の次、宇都宮東の上あたりでした。足利の優秀層のほか、佐野、舘林の優秀層が越境で
足高に来ていましたから、今でいうと、太高のポジションだと思います(対抗戦が始まったのも、同じようなポジションであったからです)。当時の足高では、文系上位層は東大・京大に毎年2人から4人くらい合格していましたし、理系上位層は、東大・東工大・東北、国公立の医歯学部に結構合格していました。私文系も、早稲田・慶応の現役合格も結構いました。みんな服部塾のおかげで
英語を得意科目にしていた気がします。
足高、太高、桐高が同レベルで競っていたました。
下野新聞や新教育の
模試で、満点250点の時代に、宇高のA判定が235点、栃高が225点、
足高が215点みたいな感じだった(足高の合否ラインは190から200くらいといわれていた)。
昭和61年卒業生は、京大に現役で3人(法2、文1)、東大(文1と3)に現浪で2人合格、東工大や千葉医・群大医にも結構合格していたから、太田や桐生よりも足利のほうが良かった印象(当時、桐高は必ず東大合格が出ていたからライバルだったが、太高よりは
足高のほうが上という意識だった)。
学業成績は上と下は結構ばらつきがあって、太高との対抗戦を始めた年に61年卒業生は中心だったから、青春を謳歌していた人(当時は足女との定期交歓会もあって、結構女遊びをしていた)も結構いた。
運動部で言えば、野球部もいいピッチャーのおかげで県大会でいい線まで行っていたし、テニス部もインターハイに出ていたのではないかな。学校としてはバラエティに富んでいて面白かった。
先生方は東大・早稲田・筑波卒の人など、結構優秀な人もいたが、二日酔いで授業する音楽や体育の先生、授業中に寝ちゃう
英語の先生、教科書ガイドを忍ばせて授業をする
国語の先生もいたりして、教育委員会には怒られそうだけど、生徒は先生を敬愛していて、先生も生徒を大人として扱ってくれて、かなり自由にさせてくれて、自己責任のいい学校だった。
今は、両毛地区の優秀層が太田に行ってしまうし、足利が県の教育委員会から嫌われているみたい(?)だから、昔とは状況が違うけど、後輩たちは自由に頑張ってほしい。地元のOBには立派な人が多いから、同窓会が先生方と協力して、生徒が頑張れるように盛り上げてあげられるといいかも。