私の母が尚絅出身ですが、そう言ってました。
昔は、尚絅高校もレベルが高かったのでしょうか?
卒業生は学校の先生が多かったですね。
私の祖母は↑小学校の教師でした。
大河ドラマ「いだてん」の金栗四三の妻(綾瀬はるか)も尚絅女学校の出身と紹介されていたと思います。
昔は尚絅からも、熊大に合格してたのですか?特に教育学部とか?
「いだてん」の金栗四三の出身校である玉名高校は熊本高校の分校だったそうですね
熊本高校も済々黌の第二分校だから、熊本県の進学校は済々黌の分校だね。
↑は全くの間違いですよ。
熊本高校と濟々黌高校は、ともに昔の(同じ名前の濟々黌中学)から、明治33年に二校に分かれた学校です。(「一幹両枝」)
熊高は濟々黌の分校ではないし、
濟々黌は熊高の分校ではない。
二分される前からの分校は
それぞれ2つの学校に引き継がれたり、県に寄付されたりした。
濟々黌のホームページの「沿革」にも書いてあるけど、読んだことないのかな?
明治21年
〜附属女子部(後の尚絅高校)を開設
明治29年
〜山鹿・八代・天草の3分校を設立開校
明治33年
4月〜本校を二分し、
第一済々黌、第二済々黌と称した
12月〜第一済々黌を熊本県中学済々黌と称し、第二済々黌を熊本県熊本中学校と称し、共にもとの如く分校を附属させる
明治33年、
1年生から5年生まできれいに2分割した。本校・分校の関係ではなく、まさに「一つの幹から二つに枝分かれしたのであった」
これが「一幹両枝」と言われる。
黒髪村 の新校舎に移った「第一濟々黌」にはスポーツ・武道に関心の高い生徒が移り、
そのまま元の校舎にのこった「第二濟々黌」には学業に関心の高い生徒が集まっていたという。
明治36年、濟々黌中学が出火した際、熊本中学は授業を午前中で切り上げ、濟々黌中に教室を供した。
現在も両校の合同研修会、公開授業、対抗野球試合などの交流が持たれている美しい関係である
ジェントルマンとくまモンに別けられた。
ジェントルマンが済々黌で、くまもんが↑のお前だ。
濟々黌高校は濟々黌の第一分校だね
熊高が済済黌の分校という発言は、済済黌関係者からもときどき聞く。ただ、単に頭が悪いだけなのか、意識の問題なのか。意識の問題なら、一体、どんな意識してんだろ。
もしかしたら学校や先生が、生徒の前でそういう間違った発言をしているためなのだろうか、と疑ってしまいます
生徒間にそのような意識はないですし、先生方もそういう話はされないです。生徒間ではそもそも済々黌が〜、熊高が〜、という話すらまず話題に上がらないですし、毎度済々黌と熊高を比較したり片方の誹謗中傷をしたりしているのは、どちらの高校にも関係のない部外者(保護者等含む)だというのが現実だと思います