↑全然、超難関大合格の現状が理解されていないな。
九州地区超難関大合格状況(28年度版)
鹿児島ラサール
東大44名京大10名阪大8名一橋3名東工大1名計66名 ※国公立医科合格全国2位
久留米附設
東大37名京大10名阪大11名一橋8名東工大2名計68名※東大理32名九医22名
熊本高校
東大17名京大19名阪大16名一橋3名東工大3名計58名※東大理31名国公立大医科全国公立校1位
尚、トップ進学校の受験者は、九大(医科を除いて)以上の超難関大や医学部医科を狙っているのが一般的である。
ここの生徒さんを灘高校の掲示板で見かけましたよ。「超名門校」と自称していましたが、本当でしょうか?
私もその書き込みは見ましたが、もう運営により削除されているようです。
地方の公立ですから、400人のレベルに大差あるのが現状です。定員200人にしてもっと超難関大進学に特化した特色のある学校経営なんてどうだろう。
数年前から県立高校普通科定員は各校360名に削減することが決まっているのに熊高と済々黌は400名のままで約束が守られていない
少子化のこれからの時代に両校の進学校としてのブランド価値を維持するためには定員320名以下でも良いくらいなのに
両校とも人気がありますからね。次は第三濟々黌の誕生!?
2016年 東大+京大+国公医率(現浪込み)
◎ラ・サール 60.9% ◎久留米附設 52.0% ◎青雲 37.5% 熊高 22.2% 鶴丸 17.8% 修猷館 10.2%
定員を減らすと言うがこの学校のすごいところは授業にあるわけで入試の点数が低くても3年間この学校で勉強して阪大以上に受かる人もいる。
逆もまた然りな可能性も孕んでいる。
よって定員を減らすという考えは極めて安直であると言えるのではないか。
入学時の順位が三年間そのままなことは無いですから。
定員を削減が実績アップには直結しないでしょう。
第三濟々黌?第二濟々黌ではなく?
1900年(明治33年)4月に熊本県中学済々黌が分割、第一済々黌と第二済々黌となった。それぞれの「済々黌」が現在の熊本県立済々黌高等学校と、熊本県立熊本高等学校である。両校は現在も「一幹両枝」として交流を続けているが、それぞれ校風は大きく異なっており、「三綱領」をモットーとし、バンカラな気風を遺す済々黌高校は「野武士」、英国の教育にもヒントを受け、「三綱領」からは一定の距離を置き、「士君子」をモットーとする熊本高校は「古武士」とも評される。(Wikipediaより引用)
つまり熊本高校は、濟々黌高校の分校(子どもとか弟みたいなイメージ)で、それが第二濟々黌です。
旧制玉名中学校 沿革
1903年 - 玉名郡弥富村に熊本県立熊本中学校玉名分校開校。
1906年 - 県立熊本中学校より独立し、県立玉名中学校と改称。
玉名高校は「第二熊本高」≒「第三済々黌」?(笑)
それいうなら八代高校とか尚絅高校も濟々黌から分離した学校だから、第四、第五濟々黌?
↑質問者内容とずれていますね。質問と濟々の歴史は関係ないですね。
天草と鹿本は第六、第七?ww
誤解されてるな…
もともとの「済々黌中学」が
「第一済々黌」「第二済々黌」の2校に分割された
(つまり、どちらも同等であり分校などではない)
「熊本高校」の分校として 「玉名高校」があり
「済々黌高校」の分校として「天草高校」がある
(この場合は「分校」としての成り立ちである)
↑それじゃあ熊高はなぜ創立134周年と名乗らないのですか?
熊高と濟々黌の関係は複雑だからね。親密な分校(双子的な)感じ?
「一幹両枝」の関係だね
推測だが、熊本中学はもともとの(旧)済々黌中学
の威光を借りなくとも、一からスタートしたかったんじゃないかな
「たとえ世に知られなくとも社会の礎たれ」という野田校長の教えを考えても、そんな気がするなぁ
なあ、(現)済々黌高校とは
分校じゃなくって 兄弟校(双子校?)の関係であることは間違いないけど、いちいち声高に主張するまでもないかな
↑質問に答えてるだけでは?
逆に済々黌の卒業生はどうしても熊高を「分校」と言いたいみたいですね
濟々黌の学校自体は学校沿革としても そんなことは主張していないのにね…
熊高関係者は 兄弟校として濟々黌のことは良い関係を維持したいと思ってるんじゃないかな
それにしては 分校であった玉名高校との交流は全くと言っていいほどないけどね…距離的な理由かな
↑そう?そんな卒業生見たことないけど