>昭和40年では、すでに上位層を一高に集中させたあとだ。そうなってからでは、何をやってみても大した効果は期待できない。
妄想を語るな。
すでにに昭和34年の東北大学合格者数で決着はついている。
東北大学合格者数
昭和 仙台一高 仙台二高
24 062 ○ ● 037 新制高校初卒業生
25 139 ○ ● 105
26 125 ○ ● 118
27 122 ○ ● 090
28 139 ○ ● 125
29 112 ○ ● 103
30 112 ○ ● 098
31 117 ● ○ 127 高校入試で輪切り始まる
32 115 ● ○ 125
33 124 ● ○ 140
34 173 ○ ● 120 東北大合格者数で「一高優位」不動に(読売新聞宮城版昭和49年2月8日)
『読売新聞』宮城版 昭和49年2月8日
15の嘆き[4] あこがれ
「一高信仰」不動に
東北大合格で他校制覇
旧制時代から敵対
一、二高も旧制一、二中の当時から激しいライバル意識を燃やし、互いに合格者数が「勝った」「負けた」で競い合い、一時は東大志望者をわざわざ東北大へ回すほどの過熱ぶりだった。
ところが、昭和34年の入試を境にこの均衡
関係は破れることになる。この年、一高は大量173人が東北大へ合格、中間層の学力を伸ばすという徹底的な個別指導方針が成果を収めたと言われる。一方、二高側では学内騒動がからんだ動揺から合格者120人と一高に差をつけられた。これ以後、世間の目はまず一高に向けられるようになったと言われ、「一高優位」は動かないものになった。
出典「東北大合格で他校制覇」
https://sendaiichikou.seesaa.net/article/481330622.html仙台二高の管理教育を受けると妄想癖が身に付く。
>昭和40年では、すでに上位層を一高に集中させたあとだ。そうなってからでは、何をやってみても大した効果は期待できない。
妄想でごまかそうとするな。
東大合格者ゼロを何回も記録するようになってからでは何をやってみても大した効果は期待できない、だろ。
東京大学合格者数
昭和 仙台一高 仙台二高
25 02 = = 2
26 03 ○ ● 1
27 02 ● ○ 3
28 03 ○ ● 0 二高1回目の東大合格者ゼロ
29 03 ○ ● 2
30 04 ○ ● 1
31 01 ● ○ 8 高校入試で輪切り始まる
32 10 ○ ● 3
33 07 ○ ● 1
34 03 ○ ● 1 東北大学合格者数で「一高優位」不動に(読売新聞宮城版昭和49年2月8日)
35 07 ○ ● 2
36 08 ○ ● 3
37 08 ○ ● 0 二高2回目の東大合格者ゼロ
38 09 ○ ● 2
39 10 ○ ● 1
40 12 ○ ● 0 二高3回目の東大合格者ゼロ
41 08 ○ ● 4
42 16 ○ ● 2
43 13 ○ ● 1
44 (東大入試中止)
45 17 ○ ● 2
46 12 ○ ● 2
47 14 ○ ● 2
48 21 ○ ● 1
49 13 ○ ● 1
50 11 ○ ● 1
51 18 ○ ● 1
52 07 ○ ● 1 学区分割高校入試(生徒比 北学区(二高)5.4、南学区(一高)4.6)
53 12 ○ ● 3
54 08 ○ ● 1
55 07 ○ ● 4 学区分割初卒業生
56 01 ● ○ 9 二高に有利な学区分割のおかげで二高成り上がり
出典「東京大学合格者数」
https://sendaiichikou.seesaa.net/article/479804075.html仙台二高の管理教育を受けると妄想癖が身に付く。
>教育学部 >> 農学部 ≒ 文学部
>地元で仕事をして働こうと思ったら、教育学部や農学部が多くなるのは当たり前だ。
昭和37年の仙台二高の東北大学合格者は農業志望者や小中学校教員志望者が詰めかけた結果だった。
仙台二高の東北大学容易3学部合格者数
昭和 文学 教育 農学 合計
36 17 26 20 063
37 34 43 35 112
38 17 28 18 063
出典「昭和37年:仙台二高の特異年」
https://sendaiichikou.seesaa.net/article/492764303.html
>昭和40年では、すでに上位層を一高に集中させたあとだ。そうなってからでは、何をやってみても大した効果は期待できない。
虚言を書くな。
すでに昭和40年以前に二高からは東大層はいなくなっている。
東京大学合格者数
昭和 仙台一高 仙台二高
25 02 = = 2
26 03 ○ ● 1
27 02 ● ○ 3
28 03 ○ ● 0 二高1回目の東大合格者ゼロ
29 03 ○ ● 2
30 04 ○ ● 1
31 01 ● ○ 8 高校入試で輪切り始まる
32 10 ○ ● 3
33 07 ○ ● 1
34 03 ○ ● 1 東北大学合格者数で「一高優位」不動に(読売新聞宮城版昭和49年2月8日)
35 07 ○ ● 2
36 08 ○ ● 3
37 08 ○ ● 0 二高2回目の東大合格者ゼロ
38 09 ○ ● 2
39 10 ○ ● 1
40 12 ○ ● 0 二高3回目の東大合格者ゼロ
出典「東京大学合格者数」
https://sendaiichikou.seesaa.net/article/479804075.html仙台二高の管理教育を受けると虚言症になる。
>昭和40年では、すでに上位層を一高に集中させたあとだ。
あいにくだったな。すでに昭和28年に仙台二高の教師が「学校差はいろんな意味で自然に生まれる」と認めている。
『河北新報』昭和28年3月2日(月)
【高校入試あれこれ(中)】
出席者
二中 …
五橋中 …
宮城野中 …
上杉山中 …
【仙台二高 増田治雄】
県教育研究所 …
県教委学務課 安倍辰夫
同指導課 …
・・・・・
【安倍】これは仙台一高と仙台二高の例もみてもわかる。設備は仙台二高が一高よりはるかによい。教員はまあ同じだ。しかし志願者の成績は最高点をとったものが毎年一高を受けている。最低点は差がない。こうした結果はどこから生まれるか父兄が反省してほしい。
【増田】学校差の問題は高校側としては全く受け身だ。成績のいいのだけよこせといっているわけではない。これは50年、70年の伝統として生まれてくるもので学校差はいろんな意味で自然に生まれる。
・・・・・
「しかし志願者の成績は最高点をとったものが毎年一高を受けている。最低点は差がない。」も数字で裏付けられている。
『高校教育スクラップ』21〜22ページ
草創期の高校入試状況
次に、高等学校草創期の入試状況につき、宮城県内のそれを取り上げ概観する。
表4は草創期のある年度の、宮城県内公立高校十八校の入学試験の高校別最高点・最低点・平均点の一覧表である。これを見てまず驚くのは、受験者に現在見られるような高校毎の輪切り現象がないことである。最低点は別として、ほぼ、どの高校も、最高点は接近していて、優秀な成績の生徒が受験していたことがわかる。
偏差値(成績)ではなく、生徒自身の興味・関心や適性で高校を選ぶ、本来のあり方が、その頃は見られたのであった。観点を変えれば、戦後の困窮化にあって、親は子弟を高校に進学させることは、かなり家計を圧迫することになるから、居住地域の最寄りの高校を受験させたのだともいえる。
(表4)草創期宮城県高校入試高校別成績一覧
校名 最高 最低 平均
仙一高 594 270 524
仙二高 534 283 504
仙台二高の管理教育を受けると「記憶障害」になる。
>>これが、二中と一中の違いだ。
>
>一中は正規の学校、二中は変則学校だった。これが、一中と二中の違いだ。
仙台一高は札幌南や日比谷と同じく元は尋常中学校・旧制一中。仙台二高は元は旧制仙台一中の分校。
出典
「仙台一高の創立過程」
https://sendaiichikou.seesaa.net/article/484673823.html「仙台二高の創立過程」
https://sendaiichikou.seesaa.net/article/485734538.html仙台二高の管理教育を受けるとボケやすくなる。