>将来二中でも一中でもどっちにでもいけるが、入学したばかりの1900年には、どっちにするのかまだ決まっていなかった。
>
>しかし、この年の3,4年生は全員二中へ進級することが決まっていた。
>だから1900年時点で一中分校の生徒ではない。
仙台二高の管理教育を受けると歴史をねつ造するようになる。
『仙台二中二高百年史』8ページ
本校は明治33年(1900年)4月、宮城県第二中学校として創立された。…、本校は、この年募集した1年生210名のほかに5年生125名を宮城県尋常中学校分校(明治33年(1900年)、第一中学校分校)より編入して、1年生と5年生とからなる変則的な生徒構成で発足した。
創立の翌年明治34年(1901年)には、本校の第1回卒業生113名を送り出し、この年1、2年生のほか再び、第一中学校分校より4年生と5年生を移籍収容して、1、2、4、5年生という構成の学校となった。さらに明治35年(1902年)には分校の生徒募集が停止されると、分校の3年生と4年生を半数ずつ一中と本校に移籍収容してそれぞれ進級、新入学した生徒を合わせて、ここにはじめて本校は1年生から5年生までを有する中学校となったのである。すなわちその年の5年生は4年の時に分校から移籍した生徒、4年生は、その年に分校から移籍した生徒、3年生は最初から本校に入学した生徒と分校から移籍した生徒の混成学年、2、1年生は最初から本校に入学した生徒という複雑な生徒構成であった。
『毎日新聞』宮城版でも同じだ。
『毎日新聞』宮城版 昭和52年(1977年)1月18日(火)
【青春のうた】
題字は伊藤英造校長
【仙台二高<5> 草創期】
新1年生が195人、5年生が118人。
明治33(1900)年4月1日、県第二中学校が開校した時の全校生だ。間の2、3、4年生はいない。初代校長は、下条幸次郎。ただし第一中学校長と兼任。校舎は、1年生が南町通、5年生が清水小路。
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https://sendaiichikou.seesaa.net/article/485734538.html
>この年募集した1年生210名のほかに5年生125名を宮城県尋常中学校分校(明治33年(1900年)、第一中学校分校)より編入して、1年生と5年生とからなる変則的な生徒構成で発足
>翌年明治34年(1901年)には、本校の第1回卒業生113名を送り出し、この年1、2年生のほか再び、第一中学校分校より4年生と5年生を移籍収容して、1、2、4、5年生という構成の学校となった。
>明治35年(1902年)には分校の生徒募集が停止されると、分校の3年生と4年生を半数ずつ一中と本校に移籍収容してそれぞれ進級、新入学した生徒を合わせて、ここにはじめて本校は1年生から5年生までを有する中学校となった
だから、こんな馬鹿げた話はないと書いているんだろうが。
一高卒だが大学を落第する程度の落ちこぼれは全く理解できていない。