>超名門!熊本県立済々黌高等学校(旧制一中)
/* 別冊宝島『ニッポンの名門高校102』宝島社、2008年
熊本県立濟々黌高等学校 (1.5ページ)
進学実績は低迷中だが、地元熊本でのブランド力は強烈
創立/1879(明治12)年
旧校名/熊本県中学濟々黌
”政界の寝業師も倒す「濟々黌人脈のパワー!」”
濟々黌高校公式の沿革では、同校は1879(明治12)年に地元の教育者・佐々友房らによって創立された私塾「同心学舎」を源流とし、3年後に濟々黌と改称したところから校史は始まっている。
・・・・・
濟々黌は、開校当初、政府などから危険視されたこともあった。…しかし、政府の視察を受けると評価は一変、向学心ある生徒を育成しているとして、1883(明治16)年には宮内省から異例の恩賜金が授与されるまでになった。その後、1894(明治27)年には県立学校となり、生徒の急増にともなって、1900(明治33)年には「第二濟々黌」を設立した。これが現在の熊本県立熊本高校となる。
進学実績では、国公立大への現役合格者数が200名を割り込む年が続いており、ここ数年でも東京大が5名程度、九州大が約30〜40名と、”弟”ともいうべき熊本高校に大きく水を空けられる状況が続いている。…だが、地元の人によると、熊本での濟々黌のブランド力は今も強烈であるという。
…政治家では、…元農水相の松岡利勝がまず挙げられよう。…1990(平成2)年の総選挙に無所属で初出馬した。だが、この時選挙区である旧熊本一区に君臨していたのが「政界の寝業師」とも呼ばれた自民党の大物、松野頼三であった。当初、松岡の当選可能性はゼロとさえいわれていたが、濟々黌人脈を中心とした後援会を持つ松岡が、麻布高校(東京都)出身の松野を大逆転で落選させて政界引退に追い込み、改めて熊本における同校の存在感を示したのである。
また、歴代熊本市長のうち少なくとも8人が濟々黌の出身であり、直近、2006年の熊本市長選挙に至っては濟々黌出身者同士の対決で、当時現職の三角保之を新人の幸山政史が破って初当選を果たしている。また、県内最大の地元紙、熊本日日新聞社長の伊豆英一も同窓生だ。このほか、政治評論家の細川隆元や、東京大教授で政治学者の姜尚中、プロ野球の名監督・古葉竹織も輩出している。変わり種の卒業生としては、コメディアンで現在は個性派俳優として活躍中の財津一郎や、お笑いタレントくりいむしちゅーの有田哲平・上田晋也がいる。
【勝手に学校査定】
3=優 優れている
2=良 平均点
1=可 もう少し努力
地域での評価は圧倒的に高い学校。直接ではないが藩校の流れも汲んでおり伝統の保持は一定水準。松岡大臣の「一件」で話題性もある。
伝統の保持 2
人材の輩出度 2
地域での評価 3
入試難易度 2
話題性 2
(続く) */
>超名門!熊本県立済々黌高等学校(旧制一中)
/* 別冊宝島『ニッポンの名門高校102』宝島社、2008年
進学実績では濟々黌を圧倒するが、人脈では後塵を拝する
熊本県立熊本高等学校 (0.5ページ)
創立/1900(明治33)年
旧校名/熊本県立熊本中学校
濟々黌高校の項目でも述べたように、熊本高校は1900(明治33)年に「第二濟々黌」として誕生した。その翌年には熊本県立熊本中学校と改称し、1904(明治37)年には現校地に移転した。このため濟々黌とは「一幹両枝」の兄弟校とされ、今も両校の交流は深い。
【今後熊高人脈は”ピカピカに光”れるか!?】
最近の進学実績では、07年東京大19名、九州大55名のほか、慶応大や早稲田大など首都圏の大学にも卒業生を多数送り出しており、どちらかというと九州地区への進学志向が強い”兄”の濟々黌高校を大きく突き放している。地元財界では熊本朝日放送社長の門垣逸夫や熊本日日新聞名誉会長の永野三哉などが同校の卒業生ではあるが、熊本での同窓人脈は濟々黌と比べると明らかに劣っており、熊本県内の首長となった人物としては、戦後三代目の熊本県知事である沢田一精が目立つくらいである。
このほか、著名人では、東海大学の創設者である松前重義や劇作家の木下順二、りそなホールディングス会長の細谷英二、宇部興産社長の田村浩章らがいる。進学実績の向上にともなって今後、同校人脈の拡大が期待されている。また、かつてカメラのCMで”いまのキミはピカピカに光って”の歌とともに一世を風靡した女優の宮崎美子も熊高のOGだ。
【勝手に学校査定】
3=優 優れている
2=良 平均点
1=可 もう少し努力
濟々黌と比べると地域での評価は一段落ちるのはやむを得ない。また地元に影響力のある人材もあまり出ていない。今後に期待だ。
伝統の保持 2
人材の輩出度 1
地域での評価 2
入試難易度 2
話題性 1
仙台一高(0.5ページ)
伝統の保持 2
人材の輩出度 2
地域での評価 3
入試難易度 3
話題性 2
仙台二高(0.5ページ)
伝統の保持 2
人材の輩出度 2
地域での評価 3
入試難易度 3
話題性 1
*/
>超名門!熊本県立済々黌高等学校(旧制一中)
/* 『名門校とは何か?』おおたとしまさ、朝日新聞出版、2015年
(カバーから)【
偏差値や大学進学実績では
絶対に測れない価値がある!】
名門校に受け継がれる文脈の壮大さ奥深さ
そして人間臭さを知ってしまうと、
偏差値や進学実績といった基準で
学校を論ずることの無意味さや、
場当たり的な教育改革議論に対する
違和感あるいは嫌悪感から
逃れられなくなってしまうかもしれない
(本文88〜93ページ)
【進学実績が落ちても人気が落ちなかった強烈な校風 − 濟々黌(熊本・県立)】
2013年春、甲子園のアルプススタンドを黄色い集団が埋め尽くした。黄色いメガホンはもちろん、詰め襟を着た応援団がかぶる校帽にも黄色い線が一周している。濟々黌の象徴「キナセン(黄色い線)」だ。熱気に溢れつつも統率の取れた応援に対して、応援団賞の優秀賞が贈られた。2012年夏の優勝校・大阪桐蔭の監督は、3回戦で濟々黌と当たった後、「まるでアウェイで戦っているようだった」と讃えた。1958年の第30回選抜大会では、初めて優勝旗を熊本に持ち帰った。地元での優勝パレードは、銀座での巨人優勝パレード以上の人だかりとなった。まさに県民の誇りである。
熱血で、元気があり、それでいて一癖ある。熊本県の県民性を表す言葉に「肥後もっこす」というのがあるが、まさにそれが校風といえるような学校だ。
卒業生の絆の強さも有名で、日本各地に同窓会がある。野球に限らず何かの種目で全国大会に出場が決まるとすぐに遠征費用などの寄付が集まるのも自慢だ。政治学者の姜尚中、お笑いコンビくりぃむしちゅーの上田晋也、有田哲平なども同校出身。
(続く) */
>超名門!熊本県立済々黌高等学校(旧制一中)
/* 『名門校とは何か?』おおたとしまさ、朝日新聞出版、2015年
【進学実績が落ちても人気が落ちなかった強烈な校風 − 濟々黌(熊本・県立)】
(続き)
創立者は佐々友房。佐々は西南戦争において、熊本隊を組織して参戦したが破れた。10年の刑を言い渡され、宮崎の牢獄に入れられた。維新の主流派に乗り遅れたのを挽回する目的で薩摩軍に加担したのだが、もはや武力による政権奪取は不可能と獄中で悟った。たまたま体を壊し、自宅療養が許された時に、友人の高橋長秋に学校を作ろうと持ちかける。「国家救済の道はいろいろあるが、国家有用の人物をつくるには教育の効果が最も大きい」。熱っぽく語った。佐々25歳、高橋20歳。これが濟々黌の起源となる。
・・・・・
つまり濟々黌は、もともと特定の政治思想を背景として作られた私立学校だったのだ。
・・・・・
1887年(明治20年)来校した森有礼文部大臣は佐々と意気投合し、濟々黌を絶賛した。九州に一校だけ作る高等学校(五高)の立地には熊本を選んだ。濟々黌のおかげで熊本は教育県と知られるようになったのである。・・・・・
一方で熊本には、公立の熊本中学校もあった。紫溟会と対立する九州改進党を後ろ盾にしていた。濟々黌とは対照的に欧米信仰とも呼ぶべき教育を行っていた。これが濟々黌のライバルになるはずであったのだが、紫溟会はなんと、県議会における数の力を利用して廃校に追いやってしまう。1888年のことだった。
これは珍しいケースである。せっかく私立の学校が育っているところに官立の学校が作られ、私立の学校が駆逐されてしまうケースはよくある。しかし濟々黌は先手を打って、官立中学を潰してしまったのだ。実質的に濟々黌が熊本における「一中」の扱いを受けることになった。
(続く) */
>超名門!熊本県立済々黌高等学校(旧制一中)
/* 『名門校とは何か?』おおたとしまさ、朝日新聞出版、2015年
【進学実績が落ちても人気が落ちなかった強烈な校風 − 濟々黌(熊本・県立)】
(続き)
1899年(明治32年)、中学校令が改正された。濟々黌は新規定の定員を大幅に超えてしまっているために、第一濟々黌と第二濟々黌とに分割せざるを得なくなった。さらに、「私立でありながら公立と同等の補助を受ける」という特例が認められなくなったため、1900年、濟々黌は私立から県立に移管された。第一濟々黌は熊本県中学濟々黌、第二は熊本県熊本中学校になった。そしてこの時にできた熊本中学校こそ現在の県立熊本高校、通称「熊高(くまたか)」である(1888年に廃校になった熊本中学とは無関係)。
熊本中学校の初代校長・野田寛はモットーとして「士君子」を掲げた。イギリス風のジェントルマンのニュアンスである。純和風でバンカラな濟々黌との差別化を図るためだ。この校風の違いが今でも熊高と濟々黌の違いとなって脈々と受け継がれている。
分割されても、濟々黌の人気は盤石だった。評判は全国に轟き、東郷平八郎は息子をわざわざ濟々黌に通わせた。1913年(大正2年)には中国の革命家孫文まで来校した。
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1970年代、濟々黌は進学実績で熊高に水をあけられていた時期もあったが、校風の違いからか、濟々黌の人気は落ちなかった。これぞ名門校が名門校たる所以の一つではないだろうか。進学実績以上の価値を、地域の人々が認めているのである。
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ちなみに1990年前後に、濟々黌を私立に戻そうという気運が、同窓会メンバーの一部で盛り上がったという。買い取りにいくらかかるか、実際に県に問い合わせたところ十数億という額を提示され、諦めた。
・・・・・ */
この本では熊本高校、仙台一高、仙台二高は取り上げられていない。
>悠々自適さんの活躍のおかげで3-0でした!
また活躍してきた。
/* 河北新報 2017年8月28日みやぎ面
秋季高校野球 県大会予選 27日
【中部】敗者復活2回戦
仙台一 4-1 仙台二
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>なにか一高のハチャメチャなエピソードを教えてください
/* 『読売新聞宮城版』昭和49年2月8日
十五の嘆き(4) あこがれ
「一高信仰」不動に 東北大合格で他校制覇
・・・・・
【団旗事件で頂点に】
ところで一、二高の対抗意識を示すエピソードの一つに34年の「応援団旗事件」がある。今も続く対抗野球戦で第1試合終了後、一高の応援団旗が行方不明になった事件だ。
この旗が第2試合直前、二高生の手で一高ベンチへほうり投げられ、しかも足跡がついていたことから大騒ぎになった。「二高は団旗を盗んだうえ、これを踏みつけて一高の名誉を汚した」。怒った一高側は、教員まで先頭に立って強硬な抗議行動を起こし、二高側は「拾っただけで、とんでもないいいがかり」と強く反発、双方学校をあげての騒動に発展した。
【今も残る優越意識】
当時、一高の生徒指導をしていた北村潮現県教委学務課長によれば、真相は「ボヤッとした一高生が置き忘れ、それを知らずに観客のだれかが踏んだらしい」のだが、共にエキサイトし、結局「一高を象徴する旗の扱いとしては不注意だった」と二高生徒会長が全一高生の前で謝罪、ようやくケリがついた。
日ごろのライバル意識が生んだハプニングだが、当時の高校総体では、来賓の知事をヤジったり、一、二高だけでエールを交換するなど他校生のひんしゅくを買う行動が多かったと言われる。以上の例は極端としても自分たちを「選ばれた者」とみる考えは今なお生き残っているようだ。
・・・・・ */
>なにか一高のハチャメチャなエピソードを教えてください
/* 『仙台二高八十年のあゆみ』
(185ページ 座談会)
青山「さて、その試合ですが、例の一中対二中のフォー・フィット・ゲームの話をひとつ―」
村上「一中と二中は、野球・庭球・柔道・剣道の4種目で定期戦をやっていました、当時は―。大正5年10月1日に二中のグラウンドで野球の試合が行われたんですが、途中で一中が審判に文句があって、退場してしまった。そこで放棄試合だというので、二中は9対0で勝利を宣告された。実際は1対0だったんですが…。そうしたら一中の応援団が怒りましてね、道場めがけて一斉投石です。ガラスはめちゃめちゃだし、大変な騒ぎでした。
翌日は、一中の道場で柔道の試合です。こっちの主将本田は、敵の副将にものの1分もしない中に締められて、落ちてしまった。」
加瀬谷「あれは凄かった。負けりゃ手で畳を叩けばいいのに、やはり意地にも負けられない…というので、すっかり落ちるまで頑張った。涙ぐましかった。私が4年生、本田主将は5年生でした。」
村上「結局柔道は一中の勝ち。前日のことがあるから一中の応援団は狂喜乱舞した。さあ、今度は二中の応援団がおさまらない。それっとばかり、一中の道場めがけて一斉投石…、目には目を――(笑)もちろん、一中の道場のガラスはめちゃめちゃ―。何しろ、この頃の一中は柔道が強く、3年連続全国制覇の実力でしたからね。その晩、みな呼ばれました、校長以下、県知事に。そして、今後対抗試合は止め、ということを宣告されたんです。野球、柔道だけでなく、他の全部を含めて一切まかりならん―と。復活したのは、大正13年(1924)のことでした。」
*/
「フォー・フィット・ゲーム」とは「forfeit game」(没収試合、放棄試合)のこと。