寺田寅彦のエッセイは相変わらず面白いのですが、
毎回毎回寺田寅彦でも面白くありませんから、
念願の芥川龍之介で一つ
私は文学に明るくない者ですから、
私でも共感しやすいエッセイから
そこには大変共感できる文がありました
それは翠嵐生や翠嵐受験生にも役に立つ考えだと思います
勝手に副題を付けると
1.目標はより高く
2.進歩しなければ必退歩
3.成し遂げるための覚悟について
4.小器用の技巧だけでは本物にはなれない
では、以下
〜芥川龍之介〜
芸術その他、より抜粋
1.完成とは読んでそつのない作品を拵へる事ではない。分化発達した芸術上の理想のそれぞれを完全に実現させる事だ。それがいつも出来なければ、その芸術家は恥ぢなければならぬ。従つて又偉大なる芸術家とは、この完成の領域が最も大規模な芸術家なのだ。一例を挙げればゲエテの如き。
勿論人間は自然の与へた能力上の制限を越える事は出来ぬ。さうかと云つて怠けてゐれば、その制限の所在さへ知らずにしまふ。だから皆ゲエテになる気で、精進する事が必要なのだ。そんな事をきまり悪がつてゐては、何年たつてもゲエテの家の馭者にだつてなれはせぬ。尤もこれからゲエテになりますと吹聴して歩く必要はないが。
2.樹の枝にゐる一匹の毛虫は、気温、天候、鳥類等の敵の為に、絶えず生命の危険に迫られてゐる。芸術家もその生命を保つて行く為に、この毛虫の通りの危険を凌しのがなければならぬ。就中なかんづく恐る可きものは停滞だ。いや、芸術の境に停滞と云ふ事はない。進歩しなければ必退歩するのだ。芸術家が退歩する時、常に一種の自動作用が始まる。と云ふ意味は、同じやうな作品ばかり書く事だ。自動作用が始まつたら、それは芸術家としての死に瀕したものと思はなければならぬ。僕自身「龍」を書いた時は、明にこの種の死に瀕してゐた。
3.芸術家は非凡な作品を作る為に、魂を悪魔へ売渡す事も、時と場合ではやり兼ねない。これは勿論僕もやり兼ねないと云ふ意味だ。僕より造作なくやりさうな人もゐるが。
4.危険なのは技巧ではない。技巧を駆使する小器用さなのだ。小器用さは真面目さの足りない所を胡麻化し易い。御恥しいが僕の悪作の中にはさう云ふ器用さだけの作品も交つてゐる。これは恐らく如何なる僕の敵と雖も、喜んで認める真理だらう。
>僕自身「龍」を書いた時は、明にこの種の死に瀕してゐた。
芥川龍之介自身はこの文からもに自らの短編作品「龍」≒「竜」を評価してはいなかったのだろう。
でも、どんなもなのかと実際に読んでみたが、コメディタッチでなかなか面白いものでした。
デマを流した本人とそのデマを信じる周囲の人々の動きややりとり、デマが一人歩きする様は、現代社会にも通ずる切り口。
SNS等で容易にデマが流せてしまう現代社会のほうがより響く内容だと感じました。
芥川龍之介は
中学生に
数学をしっかりと勉強するように勧めていますね
数学をしっかりと学び、論理的な思考力を身に付けなさいとのこと
翠嵐生は
数学に特に力を入れて勉強していますから、
そのまま自信を持って精進してください
数学は論理的思考の基礎体力を身に付けるにはベストな訓練に間違いない
芥川龍之介の補償付きです
同時に体力作りも頑張りなさいとのこと、
大成するには体力が不可欠なのでしょう
国語は一生懸命勉強せずとも出来て当たり前、
とあくたかは考えていた模様
まあ対象は文芸家を目指す
中学生のようですが、
その点は冷淡でもある
以下がその文となります
〜芥川龍之介〜
「文芸家たらんとする諸君に与ふ」
文芸家たらんとする
中学生、須らく
数学を学ぶ事勤勉なるべし。然らずんばその頭脳常に理路を辿ること迂にして、到底一人前の文芸家にならざるものと覚悟せよ。
文芸家たらんとする
中学生は、須らく体操を学ぶ事勤勉なるべし。然らずんばその体格常に薄弱にして、到底生涯の大業を成就せざると覚悟せよ。
文芸家たらんとする
中学生は、須らく
国語作文等を学ぶに冷淡なるべし。これらの科目に冷淡にして、しかもこれらの科目に通暁し得る人物にあらずんば、到底半人前の文芸家にさへならざるものと覚悟せよ。
数学のできず、体操の嫌いなるを以て、反って己の文芸的天分の豊かなるかの如く自惚るるものは元より、
国語の点数多く作文の甲ばかりなるを以て、一かどの天才の如く考ふるものは、自家の愚を天下に広告すると共に、併せて文芸の大道を冒涜するものと云はざる可からず。こは予自身の経験に基く言にして、予亦然く
中学時代を有効に経過せざりしを悲しみつつあるものなり。一言文芸家たらんとする諸君に告ぐる事斯くの如し。
大正八年三月
原文旧字 初出未詳 単行本未収
私は文学を語ることは苦手ですが、
映画は結構好きです
最近翠嵐スレの影響で、文学も面白いのかな、とも感じるようになったので、久し振りに黒澤明監督の名作映画「羅生門」を見直してみました
学校の
国語の教科書で羅生門には触れていたはずですが、私にとっての羅生門は黒澤明の映画「羅生門」でした
文学の羅生門も勝手に映画「羅生門」と内容が近いと思い込んでいましたが、
映画「羅生門」は芥川龍之介の短編作品「藪の中」が主題になっていたんですね、今更ですが
しかし登場人物達が議論しあう舞台は正に「羅生門」だし、芥川龍之介の「羅生門」のテーマである善悪の境界線についても見事に映画にも取り込まれていました
当然「藪の中」の主題である人間とは都合の良い者である、と言う点はより深く掘り下げられており、映画「羅生門」の脚本の素晴らしさを改めて感じました
映画「羅生門」は脚本家の橋本忍の脚本家デビュー作だそうです
橋本忍が会社員生活のかたわら、芥川龍之介の短編小説『藪の中』を脚色した作品を書き、それが黒澤明の手に渡り映画化を打診された
更に黒澤明から長編化するよう依頼され、芥川の短編小説『羅生門』も加えて加筆したとのこと
最終的に黒澤明が修正して完成させた脚本を基に、翌1950年に黒澤明が演出した映画『羅生門』が公開
映画「羅生門」が名作たる所以は脚本家橋本忍の才能による所が大きいと感じました
芥川龍之介の羅生門には無い、映画「羅生門」の名言を一つ、
翠嵐スレを含めたSNSなどで、何が真実なのかわからない混沌は、現代社会だけの問題ではなく、人間の本質であり、SNSを使用する際に誰もが注意すべき点であると自戒の念も込めて、
「坊さん。それはお前さんの勝手だが。一体、正しい人間なんているのか。みんな自分でそう思っているだけじゃねぇのか。人間ってやつは、自分に都合のいい悪いことを忘れてやがる。都合のいい嘘を本当だと思ってやがる。そのほうが楽だからな」
学校の
国語の教科書で芥川龍之介の羅生門には触れていたはずですが、
文学に関心が持てなかった私にとっての羅生門と言えば黒澤明監督の映画「羅生門」でした
間抜けなことに、文学の羅生門も勝手に映画「羅生門」と内容が近いと思い込んでいましたが、
映画「羅生門」は芥川龍之介の短編作品「藪の中」が主題になっていたんですね
今更ですが
映画を見直してみました
しかし登場人物達が議論しあう舞台は正に「羅生門」だし、芥川龍之介の「羅生門」のテーマである善悪の境界線についても見事に映画にも取り込まれていました
当然「藪の中」の主題である、人間とは都合の良い者である、と言う点はより深く掘り下げられており、映画「羅生門」の脚本の素晴らしさを改めて感じました
映画「羅生門」は脚本家の橋本忍の脚本家デビュー作だそうです
橋本忍が会社員生活のかたわら、芥川龍之介の短編小説「藪の中」を脚色した作品を書き、それが黒澤明の手に渡り映画化を打診された
更に黒澤明から長編化するよう依頼され、芥川龍之介の短編作品「羅生門」も加えて加筆したとのこと
最終的に黒澤明が修正して完成させた脚本を基に、翌1950年に黒澤明が演出した映画「羅生門」が公開
映画「羅生門」が名作たる所以は脚本家橋本忍の才能による所が大きいと感じました
ちなみに映画「羅生門」の脚本クレジットは黒澤明と橋本忍の2人の共同名義
芥川龍之介の羅生門には無い、映画「羅生門」の名言を一つ、
何が真実なのかわからない混沌は、現代社会だけの問題ではなく、人間の本質であり、SNSを使用する際にも誰もが注意すべき点である、と自戒の念も込めて、
「一体、正しい人間なんているのか。みんな自分でそう思っているだけじゃねぇのか。人間ってやつは、自分に都合のいい悪いことを忘れてやがる。都合のいい嘘を本当だと思ってやがる。そのほうが楽だからな」
芥川龍之介の「読書の態度」という婦人雑誌に投稿した文が面白い
読書でなにを読むべきかの芥川龍之介なりの考えが記載されている
芥川龍之介の言いたいことの本質は、知的好奇心や探究心、精神的要求には男女に差異など無いだろうと言う点
好きな本を読めとのこと
翠嵐生の読書の一助となれば幸いです
〜芥川龍之介〜
「読書の態度」
どういふ書物と云つたところが、誰でもそれを讀みさへすれば、必ずためになるといふ書物は、出版書肆の廣告以外に存在する筈はないのだから、甚だ頼りのないものである。
既に萬人向きの書物がないとすれば、問題は、讀者自身の工夫に移らなければならぬ。僕は、如何なる本を讀むかといふ事よりも、寧ろ大事なのは、如何に本を讀むかといふ事では無いかと思ふ。
では、如何に讀んだらいゝかと言へば、これも、多少人に依つて違ふかも知れないが、兎に角、何者にもわづらはされずに、正直な態度で讀よむがいゝ。何者にもと云ふ意味は世評とか、先輩の説とか、女學校の校長の意見とか、さういふ他人の批判を云ふのである。
讀者自身、面白いと思おもへば面白い。詰まらないと思へば詰まらない。――さういふ態度を、無遠慮に、押し進めて行くのである。さうすると、その讀者の能力次第に、必ず進歩があると思ふ。
これは、ひとり讀書の上ばかりではない。なんでも、自己に腰を据ゑて掛らなければ、男でも女でも、一生、精神上の奴隷となつて死んで行く他は無いのだ。
寺田寅彦のエッセイは、切り口がいつも興味深い
神話と地球物理学、
という面白いエッセイを見つけたのでご報告
物事の切り口や視点は柔軟に切り替えらる事
関係ないと思っている事象にも改めて再考を
大学入学後により大切となる考え方なので翠嵐生にもお勧めのエッセイ
寺田寅彦は八岐大蛇の描写と火山溶岩流の実体がかなり一致している事をそこでは述べている
更には八岐大蛇が目指した先が八つに分かれた沢の先の貯水池であれば伝承の描写とも辻褄が合うと述べているのだが、想像力も超一流だと感服
そう考えると旧約聖書などもやはり真実が多く含まれる気もするし
であれば一体地球には実際に何が起きていたのだろうか
マスコミに対する小さな批判もあり、それを昭和八年時点で記述するのは、もしかしたらば勇気が必要だったのだろうか、と想像したり
マスコマとの対比から、いい伝えや神話の中に貴重な真実が埋もれている可能性がある、との繋げ方が相変わらず視野が広く、どこの切り口からでも論理展開できる知識と発想力と思考力と記述力に脱帽
〜寺田寅彦〜
神話と地球物理学、より結び箇所抜粋
神話というものの意義についてはいろいろその道の学者の説があるようであるが、以上引用した若干の例によってもわかるように、わが国の神話が地球物理学的に見てもかなりまでわが国にふさわしい真実を含んだものであるということから考えて、その他の人事的な説話の中にも、案外かなりに多くの史実あるいは史実の影像が包含されているのではないかという気がする。少なくもそういう仮定を置いた上で従来よりももう少し立ち入った神話の研究をしてもよくはないかと思うのである。
きのうの出来事に関する新聞記事がほとんどうそばかりである場合もある。しかし数千年前からの言い伝えの中に貴重な真実が含まれている場合もあるであろう。少なくもわが国民の民族魂といったようなものの由来を研究する資料としては、万葉集などよりもさらにより以上に記紀の神話が重要な地位を占めるものではないかという気がする。
以上はただ一人の地球物理学者の目を通して見た日本神話観に過ぎないのであるが、ここに思うままをしるして読者の教えをこう次第である。
(昭和八年八月、文学)
寺田寅彦は児童への理科の教育について理科教師のあるべき姿について述べている
これが令和の時代になってもできていない気がする
科学立国であり続けるためには今からでも遅くは無い
「知らないことが恥でない、疑いを起さないこと、またこれを起しても考えなかったり調べなかったりすることが大なる恥である」
是非理科教師の方々にはこの点を意識して頂きたい
実はこの考え方は理科教育に限らない教育全般の肝であると感じる
日本の国力を高めるためにはやはり教育が一番大切であろう
〜寺田寅彦〜
研究的態度の養成、より抜粋
理科教授につき教師の最も注意してほしいと思うことは児童の研究的態度を養成することである。与えられた知識を覚えるだけではその効は極めて少ない。今日大学の専門の学生でさえ講義ばかり当てにして自分から進んで研究しようという気風が乏しく知識が皮相的に流れやすいのは、小学校以来の理科教授がただ与えられた知識を覚えればよいというように教えこまれている結果であろう。これには最も必要なことは児童に盛んに質問させることである。何の疑問も起さないのは恥だという風に、訓練することが必要である。そうして児童の質問に対して教師のとるべき態度について二つの場合があると思う。その一は児童の質問に答うることの出来なかった場合である。その二は教師がよく知って答え得る場合である。
前者の時には往々否いな多くの場合に教師はよい加減に誤間化して答えようとする傾きがある。これは甚だよくないことはいうまでもない。かくて児童が誤った、また全然誤っていないにしても浅薄な解釈しか出来ないことになる。この時はむしろ進んで、先生はこれを知らない、よく調べて来ましょう、皆さんもまたよく考えてお出なさい、いろいろむつヶしいまた面白いことがあるだろうと思いますといった風に取扱ってほしい。とにかく児童には、知らないことが恥でない、疑いを起さないこと、またこれを起しても考えなかったり調べなかったりすることが大なる恥である、わるいことであるといった精神を充分鼓吹してほしいと思う。教師がこの態度になることの必要は申すまでもなかろう。
第二の場合には、教師は、そんなことを知らないのか、それはこうだといった風に事もなげに答えてしまう傾きがまた少なくないように見受ける。これはまた理科教育上極めて悪いことである。何となれば児童は知らないという事が大変悪い事と思って恥じ恐れて、それきり更になんらの疑問を起したり調べたりしないようになってしまうからである。ところが如何なる簡単なることでも実際よく調べてみるとなかなかむつヶしいことが多く、世界中の学者がよっても解決の出来ないようなことが少なくはないのである。
中略
そこでこういう場合は、いろいろむつヶしいことがあるが、簡単に説明すればこうだ、皆さんこの外どういうことがあるか考えて御覧なさいといった風にして、彼等の求知心を強からしめ、研究的態度に出でしむるようにありたい。科学的の知識はそうそうたやすく終局に達せらるるものではない事を呑み込ませて欲しいものである。時には更に反問して彼等に考えさせることも必要である。勿論児童の質問があるごとにかように話しているわけにはゆかないが、教師の根本態度が、この考えであってほしいのである。
中略
ただ一つ児童に誤解を起させてはならぬ事がある。それは新しい研究という事はいくらも出来るが、しかしそれをするには現在の知識の終点を究めた後でなければ、手が出せないという事をよく呑み込まさないと、従来の知識を無視して無闇むやみに突飛とっぴな事を考えるような傾向を生ずる恐れがある。
後略
(大正七年十月『理科教育』)